タイトルの時点で全くわからないヤングは、まずYoutubeで「部屋とYシャツと私」で検索し、その歌を聴いてからカモン。
Are you ready?
この曲は1990年のヒット曲です。
当時わたしは地方に住む学生で結婚など1ミリも想像していませんでしたが、「あなたの苗字になる私」という歌詞はなんとなく当たり前のこととして疑わなかった世代です。
そしてナウ。2024年。
わたしはここ数年、「部屋とYシャツと私」をやりたいのにやらせてもらえない女性の苦しみもあるだろうと思ってきました。"アップデート" 以前に心が取り残されている人が、実は多くいるんじゃないかと思ってきました。
先日、その心情をみごとに描いた小説に出会いました。
「部屋とYシャツと私」をやりたいのにやらせてもらえない女性が、こんな苦しみを吐露しています。
女たちの心が皆同じ鋳型にはまっているとは、わたしは思いません。でも少なくとも、わたしの心の中に、母のあの、「献身」への熱情が宿っていたことは確かです。それがわたしの生来のものであることを、外の環境がそれを容易に許さなくなった今となって、はじめてはっきり理解できるのです。
(17ページ)
この独白をしている女性は、自分が教育を受けて現代的な言葉を持ってしまったことを後悔しています。
その前のページにこんな記述がありました。
教育を受けたために、わたしは、「現代」という時代と、現代的な言葉を通して接するようになってしまいました。ですから今こうしたことを話していると、われながら詩文調になって行くのをどうすることもできません。「現代」にもし直接触れ合うことがなかったなら、わたしは、あの当時の自分の気持を、まったく散文的なままに受け止めていたことでしょう──つまり、わたしが女として生まれたことに何ひとつ不思議がないのと同様、女が「愛」を「献身」に作り変えるのも当然の成り行きであって、その中にとりたてて騒ぐほどの詩的美しさが潜んでいるなどとは、まったく思いもよらなかったに違いありません。
(16ページ)
規範的かつ幻想的で居たかったのに、時代がそうさせてくれない。
これはなかなか切実です。
続きを引用します。
しかし、そうした少女時代が終わり、青春のただ中に達する今日までの間に、新しい時代の波が押し寄せてきました。日々の呼吸のように自然だったものも、今や詩のように工夫をこらして作り上げなければならなくなったのです。今日、インテリたちは、妻の夫に対する貞淑や寡婦の禁欲の中に潜む、驚くべき詩的美しさを、日に日に声をはりあげてほめ称えています。こうした有様を見ても、わたしたちの生が、「真実」と「美」の狭間で、いかに大きな分裂を起こしているかがわかります。今頃になって、付け焼刃のように「美」を持ち出したところで、また「真実」が取り戻せるとでもいうのでしょうか?
そう。
貞淑であるしか生きる道がない中で、それを「美」としてリメイク・賛美されても、最初から置いてかれてるんだっつーの! と。
彼女はこの「美」の礼賛に気持ち悪さを感じ取れないほど鈍感なわけじゃない。
そして、これと「部屋とYシャツと私」は両立し、共存する。
同じ小説のなかに、こんな猛々しい男性も登場します。
おれたち男は、ただひたすらおれたちの要求を押しつけることによって、女たちを今日のように顕現させてやったのだ。おれたちにひたすら自らを捧げ尽くすことで、女たちは、次第に自分を、より大きく、より豊かなものとして得ることができるようになった。彼女たちは、自分の幸福のダイヤモンド、苦しみの真珠を、残らずおれたちの王宮の倉庫に納めようとして、はじめてそれらの在処を知ったのだ。こういうわけだから、男にとっては取ることこそ与えることに等しく、女にとっては与えることこそ得ることに他ならないのだ。
(238ページ)
先の女性とこの男性は、共同幻想のパートナーとしてはうまくいきそうです。
男性は要求することに素直で、女性が与えたいと願う気持ちを受け入れる土台を持っています。ただこの物語の中で、この二人は夫婦ではありません。
そううまくはマッチングしない。
先の女性の夫は、妻が「与える機会」を求めているのに、それを要求しません。
それについて、彼女はこう思っています。
わたしにとってまったく不運なことは、夫はわたしに、そうした礼拝を、なかなかさせてくれませんでした。夫の偉大さは、まさにそこにあったのです。
(17ページ)
この夫は、妻に自分を礼拝させることは臆病者のやることだという考えを持っています。
こんな現代的な考えをもつ夫に愛される妻は、義理の姉から嫉妬をされ、悪口を言われます。
それがあまりにしんどくなって夫に伝えると、こんな展開が待っています。
夫がこうさとしたこともあります──「おまえに対して、義姉さんたちはいろいろ悪口を言うけれども、もし本当に悪いと思っていたら、義姉さんたちがあんなに腹を立てることはないはずだよ。」
「じゃあ、正当な理由もないのに、あんなに腹を立てるのは、どういうわけ?」
「正当な理由がないと、どうして言える? 嫉妬というものの中には、ひとつだけ真実が潜んでいる。それはね、幸福に属するものはすべて、誰にでも得る資格があるはずだ、ということなのだ。」
「それなら、神様と喧嘩すればすむことじゃない? どうしてわたしとするの?」
「神様は、手の届かないところにいるからね。」
(26ページ)
相手は関係ない。自分も得られてもおかしくないものを持っている人が目に入るところにいるだけで起こるのが嫉妬だと、こんなことまで言語化してしまう夫と、妻はうまくコミュニケーションがとれません。
「わたしはただ ”部屋とYシャツと私” を気持ちよく歌いたいだけなのに!」と、この妻は思っているんじゃないか。だけど表現できないだけなんじゃないか。
声を上げられない理由は具体的な怒りでも恐怖でもなくて、もっと形にならない、八方塞がりと感じるこういうことじゃない?
大ヒットするものには普遍的な要約力がある。
平成の日本のポップソングとインドの小説を読みながら、そんなことを思いました。