うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

訂正する力 東浩紀 著

とても興味深く読みつつ、同時に、これは自分の考えを話せる人向けの内容と感じました。

中高年になっても、まるで子役が子供の役を演じるときのように「意見の出し方のテンプレ」を探す人って、実は少なくなくない。それはこの本で指摘されている “ネガティブな「訂正する力」” と親和性が高い。わたしは肌感としてそう感じることがこれまでに何度かあったので、この本を食い入るように読みました。

 

そう。ネット上には、そのマインドを引きつける以下の “発見” が溢れています。

 

  • じつはずっと騙されていた
  • じつはずっと不幸だった
  • じつはずっと被害者だった

 

上記は、この本で書かれていた表現です。

ここに惹きつけられている状態では「訂正」は機能しない。

「じつは」「ずっと」と言いたい状態の人は、健全な解決へ導かれるロープの先を掴まない。

 

 

この本では、民主主義ってこういうことでしょ、という話が展開されています。

 民主主義社会は正解を求める社会ではありません。とにかくさまざまなひとが、自分の理屈で好き勝手に「おまえはおれを理解していない」と訂正を求めあう社会、それが民主主義の社会なのです。

(第3章より)

「おまえはおれを理解していない」というところまで自分の理屈を言語化できる人はいいけれど、そうでない人もいて、そうでない状態でできるコミュニケーションもきっとあります。

 

わたしは「自分の理屈」がまだラフスケッチの時点から、「わたしの位置からはこう見えるのだけど、そっちからはどう見える?」と、自分の視点を定めた状態で第三者の視点に(洗脳されない程度に)触れていく方法って何があるかな? と、そんなことをよく考えます。

 

 

以下の部分も興味深く読みました。

なるほど著者は、ここをまるっと「意識」と捉えるのかと。

 僕は人類学や脳科学の専門家ではありません。だからあくまでも素人の考えとして聞いてほしいのですが、「いままではこう行動していればうまく行ったけれども、状況が変わってうまくいかなくなった、それならばこうしてみればどうだろう」といった、訂正のシミュレーションが意識の起源なのではないでしょうか。そして、最初は意識しながらやっていく行為も、繰り返されて訂正が必要なくなると無意識のなかに沈んでいく。

(第2章より)

わたしは、状況が変わったことを認識できるところが「外部も含めて見る意識がはたらいた」状態と思っていて、状況が変わったことを認識しない選択もあると思っています。「外部を無視する意識をはたらかせる」という選択です。

これは無意識でやっているように感じるけれど、時間が経つと倫理・道徳観や反省の力がはたらくこともある。その瞬間に「迷い」の意識の記憶があるからこそ、反省ができると思っています。

 

 

わたしは「訂正する力」がないと、安定感も個性も得られないと思っています。中年になってからの個性は、「訂正のしかた」だから。

やはり同世代の人はこういうことを考えるよねと思いながら読みました。