4つの話が収録されているうち「シャンデリア」という話だけは先にKindleで買って読んでいました。
ほかの3話とあわせて読むとまた違う記憶が解凍されました。それは女性同士のコミュニケーションにおける「恨まれないために行う自然な作法」のこまごまとしたもの。
こういう作法をしておかないと、この多様化の時代は乗り越えて行けない。行けないよねーそうそうそういうの、やるやる。やるのよーというのが書かれている。そこをはぐらかさないから、わたしはこの作家の小説が好きなのかもしれない。
これをマウンティングと感じるなんてあなたはどれだけ繊細なのという扱いを受けたり、逆に当事者同士でしかわからない境界を踏み間違えてきたわたしは、こういう物語に感情を拾ってもらうことでラクになれる。一話目の「彼女と彼女の記憶について」もニ話目の「シャンデリア」も、そこに物質的格差が掛け合わさったときに起こる「帳消し」という作用の瞬間を見逃せない。
しかし着ているものが素晴らしかった。
(「シャンデリア」より)
この「しかし」は、横山やすしの「怒るでしかし」の逆。「しかし」を冒頭に持ってこれる現実のナマナマしさよ。うおぉぉぉーーー。女性も吉田栄作ばりにうおぉぉぉーーー、という声を出す。心の中で出す。出すのよぉ。
嫉妬される筋合いのない嫉妬への対応はいつだってむずかしい。これはわたしが得た成果であって、成果という自然現象ですから恨まないでくださいね、というか恨まれる筋合いはありませんよね。と理論上は200%成立する関係も、成立しない。ほんとうに、成立しないの? それが人間の心のはたらきとしての自然現象だから?
四話目の女性が夫から受ける言葉も、なんだかつらい。妻は夫の嘘に気がついているけれど、気づいていないものとして振舞う。夫は妻に謎がある時点で許せないという意思表明をする。この夫婦はどうやってその後の生活の手続きを踏むのだろう。想像すると疲れる。こんなふうに小説を読んで疲れるのは、なにかのリハーサルか。
わたしはこのブログで自分のことを中年とか若い頃は…なんて書いているけれど、算数ができないわけではないから、本当のところはこの小説のとおり。
「まあ、あなたみたいな若い人に素晴らしいなんて言われるなんて、どうしたらいいのかしら」と老婆はぐりぐりに塗りつぶされた真っ赤な唇を左右に引き上げて嬉しそうに笑った。
若くないですよ、とっくに四十超えてるんですよと心のなかで笑ったけれど、もちろん口には出さなかった。わたしの歳で若くないのなら、この老婆はほとんど死体みたいなものだ。
(「シャンデリア」より)
だれだって足し算引き算の算数はできる前提の上で、自分を若くないと認識していますよという設定に常に補正する。落としどころとして使いやすいワード(いまは「中年」が便利!)を当てはめ、わたしは自虐表現作法を日常に織り込み続ける。これはSuicaの残高が300円以下になったから2000円チャージしておこうというのと同じくらい自然なルーティーンで、100円になったら気にするという人もいるけれど、わたしはたまに隣県へも行くから300円くらいになったら入れておく。とにかく改札の流れを止めるという失敗をやらかさないよう、気がついたら入れておく。
わたしは、あたりまえにそんな感じで暮らしている。誰に教わったということもなくそうしている。この本は、誰に教わるでもなくそうしておくと便利と感じる作法の裏をあばいている。あばいちゃっています。
▼同じ作家のほかの本