うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ストレスとか人生の転機とかキャリアとか

ずっと考えていることがある。

頭を抱えたり引きこもったりして考えるのではなく、日常を回しながら考えていることがある。

じっくり考える、というののやり方がわからない。わたしにはわからない言葉がたくさんある。

「忙しい」という言葉の使いかたも、いまだにわからない。熱が発動したら予定が詰まっていてもやることはあるし、ここでわたしが引き受けるだけで全体が回ると思えば引き受ける。「忙しい」という言葉を使い慣れるほど忙しくした経験がないのかもしれない。

 

 

 

「ストレス」という言葉もずっと使い方がわからない。だけどこれについては最近ふと「こういうことか」と思うことがあった。

ストレスというのは

 

 

 

  気にかかることがある状態

 

 

 

この連続性について指しているんじゃないか。

なにかに集中できているときは、気にかかることから解放されている。

ストレスをゼロにすることは、肉体の中に脳が格納されていて心のはたらきがある以上は無理なのだとして、そのうえで解放される瞬間を多くしたら回復できるだろうと考えるのは、なるほど建設的だ。

目を離したら死ぬかもしれない乳幼児の責任を持つ人のストレスたるや、もうその最強のやつなのだろうし、とにかくそのように定義してみるといろいろな「ストレス」という表現が腑に落ちる。

 

 

 

ずっと気にかかっていたことが人生の転機と絡まることがある。

気にかけた自分から絡んでいったのか、逆なのか。その割合について考えすぎると絡まりすぎてしまう。言葉にしようにも、うまくほどけない。そういうことがある。

付き合いの長い友人でも、話を聞いていると「ああ、それはそういうことだったの。いまそのくらいほどけてきて、解釈がそうなったのね」ということがある。そこに新たな経緯や脚色が出てきても、わたしはそれを嘘だと思わない。「そのときのほんとう」だと思って聞く。

そこで展開される話の中には支配関係の勾配があったりするけれど、なるべく怒りの感情にとらわれずに見ようとする努力を重ねることは賢明な努力だ。そんなに人生経験は多くないけれど、そう思う。

50歳近くにもなってくると、友人との会話がそういう感じになってくる。

いやマジでえらいよあなた、としみじみ思う。

 

 

 

半年ほど前に、以前同じヨガ教室にいた友人と「キャリアって、どういう意味だと思う?」と話したことがある。30代のはじめに知り合った友人なので、いま話すとなかなか微細な話になる。

世の中の仕組みが世界と繋がって定義がどんどん変わっていく中で、かつての仕事も道具も必要性も変化し続けていて、統一感も不動感もない。

そのときわたしたちは、「その業界や商慣習と完全には離れない距離で関わってきた時間の感覚と、経緯を理解したり背景を多少は類推できる経験則」が実感としてのキャリアで、それを他の場所でも応用できるのが能力で、結局は働いてみなければわからないものだよねと、そんな話をした。公的な仕事以外でキャリアって縦に積めるものなのだろうかと、今でもときどき疑問に思う。

キャリアを経歴と同義語とするなら、わたしは上に高く積んでいるのではなく、地図のように横に広がった形をしている。まん丸じゃなく、ゆがんだ形をしている。

 

 

 

わたしのこれって、この感じって、どうなんだろう? と考え始めると、それ自体が「気にかけていることがある状態」になって、ストレスになる。

自分のことを考えることがストレスになるというのはなんだか不思議でもあるけれど、不思議ではない。

どうしたら自分のことを考えずにいられるかという視点で、そこにいろんなメソッドが開発されたと考えるとしっくりいくから。

「自分らしく」とか「ヨガをしている人らしく」などと考えない。

ただの人間として悩むこと。これは重要なことです。