今日は有名な僧侶の話を書きます。
そのかたの法話を聞きに行った講演会は出版記念イベントを兼ねた場で、会場は日比谷公会堂でした。
そのときに、驚くコミュニケーションを見ました。それはイベントの最後によくある、質疑応答の時間に起こりました。
聴き手の僧侶は80代。耳があまりよく聞こえない時がありますよと、そんな前提で始まりました。
「質問のあるかたは挙手をお願いします」と進行の人が言ってすぐに、たくさん手が挙がりました。満員の日比谷公会堂で、半径5メートルの範囲で1〜2名が手を挙げていました。
全部で4、5名ほどの人が質疑応答の対象になりました。
僧侶のそのかたは、「具体的に○年前に兄が交通事故で亡くなって、こういうときに思い出してしまって…」「○年前と○年前に、立て続けにこんなことがあって…」と相談する人に対して、それぞれに「仏法の言葉に○○というのがありますけれども」という話から、その苦しみは自分の中から生まれるもので、心はそういうふうになっているんですね。だからこれからも辛いとは思うのだけど、がんばってねと、そんなふうに回答されていました。
質問者の中にひとり、これどうやって話を進めるんだろ……と思うような話しかたをする人がいました。
わたしは人に言えない難病を抱えているのですが
からはじまるお話で、それ以外の経緯も心の変化も語られないのです。なにかお話しされているのだけど、よくわからない。
僧侶のかたは、はじめのうちは「なに? ちょっと聞こえなかったわ」とか「いまあのかた、なんておっしゃったの?」と進行の人に尋ねるなどして、もう少し状況を引き出そうとしていたのですが、「だから、それが、人に言えない病気なんです」とおっしゃる。話が動かない。
わたしには「この僧侶に自分の苦しみの強さを理解させたい」という念のようなものしか伝わってこず、話をしたいのであれば言いたくない部分を抽象化してでも言語化して、キャッチボールが成り立つようにならないものかと思っていました。
どうすんのかしらこれ……と。進行の人も困っていました。
そうしたら、その僧侶のかたが、こう言いました。
いまこの会場で、人に言えない難病を抱えている人って
どのくらいいらっしゃるのかしら?
そうしたら、バババババッとあちこちから手が挙がったのです。
そのあとのことは、その瞬間の景色のインパクトが凄すぎて、あまりよく覚えていません。聞いているわたしも緊張して張り詰めていたようです。
「人に言えない」という設定を満員の日比谷公会堂に持ち込んで、マイクを握って岩のように動かない人。その人はわたしの1.5メートルくらい左前に立っていました。本人に息づかいが聞こえないように固唾を吞むしかないなか、いろいろなことを思いました。
もしかしたらこの人はダメ元で話したくて勢いで手を挙げたのかもしれない。自分に向けて発せられた言葉をお守りのように持ち帰りたかったのかもしれない。そんなふうにも思いました。
いずれにしても、個人の自我の問題を限られた時間のなかで扱う対応技術として、壇上の僧侶のかたは、ずいぶん慣れているなぁと思いました。
大勢の人の重たい念を受け取る側の視点って、こういうものなんですよ。というのを見て、これはなんかすごいことだぞと思ったのでした。
▼12年前のことです