太極拳を再開しました。もうそろそろ1か月になります。
室内で太陽礼拝もよいのですが、屋外で太極拳もしています。
元々はセロ活(セロトニン取り入れ活動)として、目に朝日を入れるウォーキングをはじめて、距離を伸ばしていくうちに太極拳サークルの人たちと知り合いました。
いいな。やりたいな。と思って広場で足を止めたら年配の方に声をかけてもらえて、あの辺の場所で真似するようにやればいいよと言ってもらったので、その通りにしました。
それから数日参加して、少しずつ顔を覚えてもらいました。
ゆっくりと存在を認識されていくなかで、感覚の回路が繋がるように簡化二十四式の型を思い出し、自動的に挙動が連鎖していくようになりました。
あ、身体が勝手に動いた・・・、と思い出しはじめたあたりから、周囲の人がもっと輪の近くへ来るように促してくださったり、「わたしを見ないでね(お手本にしないでね)。間違えるから。ガハハ~」と軽口に混ぜてもらえるようになりました。
わたしは20分だけ、7時頃まで準備運動だけ参加しています。
ほかのみなさんは7時半か8時ごろまで、なにか続きの練習をされているようです。
二週間ほどたった頃、最初に声をかけてくださった人から「おう。今日も来たか。実は会費ってのがあるんだよな・・・」と言われました。
「明日持ってきます」と言ったら、「いや! 俺が立て替えとく」と言われました。「えええ」と思ったのですが、いちおうお金は持って行きつつ、なにか言われるまで黙っていました。
数日後に、別の会計係のような人から紙を渡されて、これに住所と名前を書いてきてね。と言われました。お金はあのおじさんが払ったからと。
「えええ」と思ってその人のところへ行ったら、「いいんだ。競馬で当てたから」と、はぐらかされます。周りの人も、いいんだいいんだ。と。
わたしが記入をした1000円の領収書控えには、月会費の値段かと思ったら年会費と記載してありました。
準備運動だけの会員ですが、あと一年、続けることができることになりました。
先生とご挨拶できた日もありました。
たまたま早く来られた日があったようです。スリムな立ち姿がすてきなおばあさま。
その口から、「まー。このオジンにナンパされたの。しょうがないねぇ」という言葉が飛び出して、ああ好きだこのノリ・・・。と思いました。
「オジン」ってリアルな声で聞いたのは何十年ぶりだろう。
* * *
元々は仕事に向かう集中力をなんとかしたくてはじめた朝の散歩、セロトニン補充活動でした。
目に日光を入れるべく朝日のほうへ向かって散歩をはじめて、距離を伸ばしていくうちにこの輪に巡り会えました。
いまは身体が自然に型を思い出していくのを楽しんでいます。
太極拳の簡化二十四式は、アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガのハーフプライマリーのような基本メニュー。パンデミックの前まで、週に一回の練習を2年近く続けていました。
「なーんだ。あなた、(型を)よく知ってるんじゃないの。いいじゃない、いいじゃない」と、周りの人と繋がっていくことができ、型は共通言語になっていいなとあらためて思いました。
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わたしが平日に従事している仕事は変化が激しく、5年後10年後どころか、3年後には同じ業務を同じままやっていることがない、キャリアという概念を持ちにくい仕事です。そもそも20年前にはなかった仕事です。
流れ流れていく業界なので、執着をすると本末転倒な感じになります。なのでこだわらないようにしています。
だけどそうすると根無し草のような感じもあって、それこそセロトニンが枯渇すると虚無感のようなものがむき出しになります。
そんなわたしと社会をつなぐ役割を、ヨガと太極拳が、わたしをふわっと包むようにそこに存在してくれています。
どちらもとってもオープンで、間口の広いもの。たいした道具もいりません。
求めれば近くに存在してくれている言語・趣味として、やっぱりいいもんだな、ありがたいな、と思っています。
太極拳では、雲手(ゆんしょう)という、手で空気を払いながらカニ歩きをするような動きが好きです。
ヨガの太陽礼拝も好きです。