久しぶりに友人と会って食事をしたときに、こんな話を聞きました。
積もる話が溜まっていたようで、いろんな話を聞きました。
その日は失敗談を聞いたのですが、話の途中で「そこでね、前に聞いた “おリボン” の話を思い出したのよ! あれ、自分がやってた」と言われました。
おリボンの話
初対面や数回しか会っていない人に、これを言ったら喜ぶだろうなと思うことを口にする際に、いきなりズカズカ行って相手をヒかせてしまったことって、ありませんか?
わたしはあります。
自分がそれをたくさんやって失敗してきたので、受け手側になったときに「こう見えているのか・・・」と驚きました。
受け手側には、こう見えました。
包装もなくおリボンもかけずに、
その人がその人自身を
「プレゼントです!」と差し出してきた感じ
好意的なのはわかるのだけど、それがプレゼントに見えない。
これはプレゼントなのだと自分に頭で理解させてから「ありがとうございます」と返答するので、会話が自然に流れていきません。
「伝えたい」「喜ばせたい」「気づきを披露したい」が爆走する
今日のこの話は、以前書いた「ヴァータ病」の話をした友人との話の続きです。
友人は小規模なドキュメンタリー映画を製作した監督に感想を言いに行って、「こんなところに気がつきました。そこでこんなことを考えました」ということを伝える距離感を間違ってしまったそうです。
わたしはその話を聞きながら、もしその監督が緊張していたり、その場を少しでもアウェイと感じているなら(外国や遠方から来ているなら、なおさら)、まあギョッとするかもねと話しました。
スマートな人は相手が自然にそれを察知できるようにする技術を持っていて、こういう会話のサービス精神って、実践でしか学べません。
学ぶにも失敗のコストがかかります。それを一足飛びにビュンと伝えようとして、「よくぞ理解してくれました!」というリアクションを求める強欲に自分で気づくことは、けっこうしんどい修行です。
友人もあとで頭でそう理解したらしいのだけど、そのときはショックだったみたい。
予備知識や背景を要約して相手に負担なく伝え、そこからコミュニケーションをとるのは簡単じゃありません。
おリボンとプレゼント
友人は「わたしがおリボンをかけなかったから、ギョッとされた」と自分で解釈していました。わたしが前に話した「おリボン」というフレーズを思い出したそうです。
あっ、おリボンかけないまま出してた・・・
って、渡してから気づくことって、けっこうあるもの。
小さい子を褒めるときには、受け手の怯えも考慮してちゃんと笑顔でそれ用の声を出すのにね。
この学びは中年になってからだと、そのたびにかなり凹みます。凹むんだけど、相手の受け取り方を責めずに自ら凹む人をわたしは尊敬します。長生きするにしてもそうでないにしても、成長したいから。
わたしも失敗しているし、これからも失敗すると思うけど、こういうことがやっと人と話せるようになりました。