うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

泥のようなつぶやきと、泥団子のような愚痴

桜の季節に、友人から「ちょっと聞いて。こんなことがあったのよ」という話を聞きました。
いまは聞くことのほうが多いので「じゃあまず仕事案件から」「次はお稽古事案件」というふうに切り分けて聞いたりします。
ひとり、労働スタイルがわたしとスイッチするかのように(まるで「転校生」の性別が入れ替わるみたいに同時期に)、わたしが組織をやめたときに組織に入る労働スタイルに変えた友人がいるのですが、その人の「ちょっと聞いて」の中身が、愚痴の文体構成がだんだんまとまってきていることに気がつきました。
聞き手の知らない組織の中で起こる出来事を話すときは、関係性がわかるように話せればもちろんそのほうがよいのだけど、これがなかなかむずかしい。どこまでが現実で、どこからが推測で、いまどういう方向に自身のネガティブな妄想がはたらいているのか。そして、それをどこまで自覚しているか。これらのことが以前よりもきれいにまとまっていて驚きました。本人も話し終えた時点でスッキリしたようでした。
わたしは仕事での葛藤バリエーションに多少のストックがあるので、友人の話を聞いて「その種類の理不尽さで言ったら、わたしも過去にこういう流れでこういうことがあったよ」と話したりします。すると「えー、あなたにもそんなことが、あったの・・・?」「あったわさー」となります。


組織勤めを始めた頃のその友人は、経験を積まなければわからない相手の苦しみの種類の想像力も視野も、そういうすべてのものがまだ淡く、とてもつらそうでした。ここ数年いろいろな話を聞いていますが、近ごろはただ感心するばかり。葛藤しながらも冷静なもう一人の自分を持っているのでしょう。
わたしは悩みにも運動神経回路のようなものがあると思っていて、感情の泥団子を作れるようになればもう大したものだと思っているところがあります。感情や意識を、砂粒のようなものだと思っています。


ときどき、泥を泥のまま、まるでそれがすでに「かたまり」であるかのように手渡そうとする、そういう話し方をする人がいます。聞いたときに、手や服を汚されただけの感覚になります。思いついたことを、コトとコトの接点の説明のないまま、ただただ相手に塗りつける。そういう話し方。
わたしはこういう場面を見慣れているので、またかと思って聞くだけです。信頼関係ができあがっていくのは、もっとずっと後の段階です。それがゆくゆく泥団子になる人とは関係が築かれ、ずっと泥のままと感じる人とは疎遠になります。コロコロとした団子状態の、聞いていて嫌ではない、コンテンツ力のある愚痴というのは意外と多いものです。
アニマル・セラピーが有効なのは、たぶん泥がなかなか団子にならない、そういう段階でも相手が受け取ってくれる(ように感じられる)からかと思います。ここの段階でのコミュニケーションを続けることは、団子の状態でないと受け取るのがしんどい人には無理な対応なので、すばらしいアイデアだなと思います。



 多少は固めようとしてみてよ。
 ただの水分でしかないものを蒸発させて
 残ったものを形にしようとしてみてよ。



わたしはこんな気持ちになることがあります。
同じ重さでも、水を含んだような重さを抜くだけで受け取りやすくなることが多々あるからです。この水分にあたるものがなんなのか、まだうまく言語化できません。具体的な愚痴は聞くけど、妄想を含んだ愚痴は聞きたくない。そんな感じでしょうか。


ラブラブ期の恋人同士の会話は、この水分に甘味があるから成り立つ。そんなふうに思うことがあります。あれは特別な状態です。魔法のようです。それを "魔法のきかない者同士" でやろうとするときは、その水分も「へんな汁」でしかない。つらい。
最後のは、魔法を見ていないわたしの愚痴です。