少し前のことになるけれど、友人から「仕事でこんなことがあってさー」とダメージに唸っている様子で連絡があって、ちょうど練習から戻ってさてこれから一杯やるかというタイミングだったこともあり、つまみを用意してからビデオチャットをした。
対話をするということについて考えるきっかけを得て、あらためて気づくことがあった。
わたしは仕事の判断で悩んだとき、話は同じ景色を見ている人(同じ組織の人、でなくてもせめて同じ職種の人、あるいは同じ立場を経験した人)にする。
自分の心の中で起こっていることを言語化するときには、悪評の拡散にならないように、判断の色が出る部分は特に「わたしが」という主語にするように気をつけて話す。それを心がけ始めた頃から、話相手は自然と同じ景色を見ている人を選ぶようになった。
それでもなにか自分のことを話すときは、関係性や環境描写に悪意が乗ってしまうことがある。説明の時点でそれをしてしまうとあとで補正する必要が出てきて、補正を繰り返せば聞き手の信用を失う。
わたしはこれが孤立の始まりだと思っている。なのでなるべく景色や登場人物の説明をしなくてすむ、共通認識事項の多い人に話せるようにしておくのがよいと考えるようになった。
組織のマネジメント論で直接利害関係のない "斜めの関係性の人" に相談するのがよいとか "メンター" の存在の効用を語る人がいるけれど、一般社会でそれは危険だと思っている。日本語の係り受けがおかしいまま話をする人が多いから。できればカウンセラーに話を聞いてもらったほうが、話者が曲げている要素を拾ってくれるだろうし、そのほうがよいだろうと考える。仕事以外のことでも、とくに依存症の問題などは専門家にしておくべきことを経験から学んでいる。
そんなこんなで、いまは仕事については職場の人に相談できるよう、はじめから意識して関係づくりをするようになっている。仕事を引き受けるときも、「これについてはアウトプットを想像できるけれど、こういう事態になると自分で調整できるかわからない。そのときは誰かに助けてほしい」ということをやっと事前に整理できるようになった。
できそうなこととできなそうなことを分類できるようになるには、まず仕事の経験がいる。それに加えて、不安によって肥大した自我を分解する作業が必要になる。いったん自我が肥大してしまうと混乱して毒が回り「わたしが "できない" ってことになる? わたし、不要?」というネガティブ・スパイラルから抜け出すのが難しくなる。
それを避けるためのことを自己を振り返りながら30代で何度も考えて、40代になってからも考え続けて、今に至る。これだという魔法の杖や呪文のようなものはない。自分も世間も変化し続けているので、それはない。ない前提で考える癖がついたことが、いちばんの安定剤かもしれない。
── 話せる相手を探すよりも仕組みでなんとかしようと考えるようになったのは、いつからだろう。
いまのように、多くの人の日常に圧倒的な変化が起こる→仕組みのほうが先に詰まってしまう→相談の受け手リソースが枯れる→メンタル面で「ない袖は振れない」という人の多い状態が一時的にとはいえ長く続く、という状況下では、セルフ・メンテナンスの重要性をつくづく感じる。自分の中で仕組みを探っておいてよかった。でも、本来ならな探らなくてすむ世の中がいい。でもそれはただの理想で、それが平和ということだろう。
話を戻す。
わたしは友人の話を聞いているときに、この人はここまで自問自答を済ませていたのかと思って、ひとまず聞いた。その間にメンタル面で「ない袖は振れない」という気持ちになることはなかった。
友人は、いままでこうして散らしてきた事がコロナの件でこのように穴がふさがれたという自己観察、そして自分でもこの手でずっといけるとは思っていなかったという薄々の認識、漠然と自分が追い込まれたと感じる別の案件が同時に発生していることなど、自分の中で不安材料をいくつか "混ぜて" いることを自覚している。
いろいろな話をしながら、二人で何度か同じ結論にたどりついた。
これからも、こういうことってあるんだよね
若い頃のように、共通の敵を設定してあるある話をして蹴散らして忘れましょう、とはならない。
この作業は、まるで友人の家の土台がシロアリに食われて呼ばれた感じだ。「また食われるかもしれないけれど。── この世にシロアリがいる限り」などとポエム風に倒置法で言ってみたあとに二人でニヤニヤしながら、補修を手伝っているような感覚になった。本人がどんな建造物としてこれまでやってきたのか、そして現在の家の状態を認識できているから、わたしも手伝うことができる。
同じ状況でも、はじめから「不動産屋はそんなこと言ってなかったのに!」という調子で話を組み立てる人がいる。だったら不動産屋へ言えばいいじゃないか、ということになり、わたしは補修を手伝うことができない。そういう人もいることを知っているので、この友人の談話スキルに感心した。
その日は精神分析医のスターが何人も登場する「危険なメソッド」という映画を何度か観たあとだった。フロイトやユングが行っていた談話療法は、英語で Talking Cure というらしい。わたしは医師ではないのでそれはできない。紐解くことはできない。
でも、 Talking Repair なら可能かもしれない。そんなことを考えた。