先日、友人がうまい言葉を使っていた。
ネガティブキャンペーンよりも日常的に耳にするものを、マイナスキャンペーンと言っていた。
共通の知人同士のトラブルを知らせてくる人について、「なんでマイナスキャンペーンをするのだろう」と。
ネガティブキャンペーンほどの攻撃性や敵認定があれば話はわかりやすいのだけど、そういうわけでもない、共通の知人の対立やうまくいかなかった話を ”こんな情報を得たので、お渡ししておきますねー” と速報的に軽く差し出されると、中年の身としては耳を貸す反応のスピード自体が、なんだか急に裸を晒すようで戸惑う。ごめんその話、準備運動してなかったから後で! というわけにもいかない。
あれはどうにも気質だと思うようになってから数年が経つ。
ここ数年で、少し年上の先輩や同世代の仲間が大病をしたりそれ以上のことが、ぽつぽつ、ときに立て続けに起こり、そういうあれこれのなかで、あれはどうにも気質のなのだと思うようになった。
これはこういう流れで聞くべき話じゃないな、と判断するときの思考は、話題にされている人の尊厳や不可侵領域を侵さないように配慮しながら、同時に自分のあり方についても考えている。そういう複雑な処理をしている。
いっぽうで、身近な環境で起こる非日常を見て、それは日常を侵すことだから関係者に速く伝える価値があると信じる人は、どこか本能的で動物的だ。
生存能力にも使い分けが必要みたいだ。
(この話は身近なフィクションです)