これはちょっとした、日々の思考のテクニックのようなもの。
ポジティブ思考であるべきと思う決断を、わたしはヨガの練習のあとにするようにしています。
脳が賢くなっているタイミングを狙います。
賢いというのは、いま考えてもしょうがない類推がいかに無駄かを知っている状態です。
やろうと思ったり引き受けようと思っていることについて、この先へ進んだらこんな面倒なことがあるだろうと、世間のネガティブな情報を自分の進路の「想像すごろく」に置くことほど、無駄なことはありません。
そのすごろくのコマはいくつでも増やせます。
無駄なことを脳が理解している
無駄なことというのは、それ単体に価値がないというよりも、「その心配と妄想は、無限にやれる」というタイプの、増える菌のようなもの。頭の中はスペースが無限だから、その範囲でどんどん増えていきます。
集中や瞑想をする時間の直後はその菌の活動が鎮まっているので、「やってみよう」「やろう」という気持ちで前に進みやすくなります。
頭の中が平らな湖のような状態だと、スススーっと前に漕ぎ出しやすくなります。
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身近な他人の物語を想像している時間も、これは自分の進路の想像と同様に、無駄です。
大切な人の進路がうまく切り開かれますようにと願うやさしい気持ちは、祈りという行動に移します。身近な人に自分の進路が与える可能性も、同様に祈るしかありません。
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先日、わたしとは別の職種のかたとご飯を食べながら、「職場にこんな人がいて困る」という話を伺うことがありました。
身近な人が持っているもの(家族構成・財産・経験・ステイタスなど)を情報として集めることをやめられない人がいて、プライベートなことを尋ねられて困るのだそう。
わたしもそういう人に会ったことがあります。
いくつかの環境を見てきて、どの組織にも一定数いる、比率の自然現象くらいに思っています。
詮索癖のようなものは、「無駄なことを脳が理解している」という状態をハートが認識したことがないと止まらないもの。
よく「相手のことは変えられない」という言い方をする人がいるけれど、外側から変えられないのは当たり前で、変わるタイミングは神のみぞ知る、です。年齢は関係ありません。
「相手のことは変えられないから、自分を変える」と言う人がいますが、わたしはそれもしません。ただの比率のマッチングで起こることだから。
交通ルールを守って気をつけて運転していても、落ちている手袋を見たらギョッとします。もう人生で何回、これをやってきたでしょう。落ちている手袋はなくならない。今日もどこかで手袋が落とされています。
これと同じように、人が活動する外の世界へ出たなら、詮索する人に出会うこともあります。
わたしにはわたしの話したいタイミングがあって、それも神のみぞ知る、です。
なのでコミュニケーションは完全にドンピシャで合わせにいけない、ほとんど合わないのが通常である中に、タイミングが合う人にたまに出会えるのが幸せです。
ひとりで経験から気づいたことを貯めて、ふいに他人と確認しあえる瞬間があって、それが人間同士として生まれたよろこびで、その糸が信頼関係として編まれていく。
日常にはいろいろなことがあるけれど、その日できることは、せいぜい、自分自身が「無駄なことを脳が理解していない状態」に気づいたときに、それを続けないように気をつけること。
他人の頭の中に指を突っ込んで想像停止スイッチをポチッと押すことは、不可能だから。他人の代わりにトイレへ行けないのと同じです。
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「無駄なことを脳が理解している」という状態は、一度知ったら永久不滅の知識として冷凍保存できるものではなく、状態です。
頭の中の無駄なおしゃべりが止んで静かになると、ポジティブな決断がしやすくなります。
そのポジティブな決断に向いた状態を作り出すパターンを、ふんどし一丁で探り出してくれた人たちがいた。インドの聖者たちです。
そんな日々の考えもあって、わたしはヨガを開発し、伝えてくれた人たちに感謝をしています。