うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

同じ単語を逆の文脈で決め手に使うことがある

少し前の週末に、一年ぶりに会う友人たちとゆっくり話す時間を過ごしてきました。

友人とその配偶者のかたと三人で話すようになって、数年が経っています。

それぞれが年齢を重ねて考えてきたことを交錯させ、ゆるい雑談を重ねる瞬間に「ああ、今のこの意識を冷凍保存しておきたい」と思うことがあります。

 

相手の話に誘発されて「その流れで言うと・・・」から会話が連鎖していくときの「その流れで」に各自の経験が見えて、うまみが滲み出る。

対話というのは「その流れで言うと・・・」のところに重要なポイントがあると感じることがあります。それは、信頼感の源泉を掘り当てるような瞬間です。

 

Q&Aだけの会話を繰り返すことの空虚感の正体は「その流れで言うと~」の確認がないからじゃないか。知らないことをたくさん知って不明点が解消されたら充実するかと思いきや、かえって満たされなさに気づいてしまうことがあるのは、この源泉の温度が実は自然でなかったことを思い知らされてしまうからじゃないか。

 

 

 *  *  *

 

 

「その流れで言うと・・・」が噛み合った対話では、同じ単語を別の文脈で使うことができます。

ずっと考えてきたことを安心して口に出すことができるときは、言葉も心も自由になります。

 

 

例えば

 

 

 

  肝っ玉かあさん

 

 

 

この単語を、わたしはまったく別の文脈で使い分けたことがあります。

Aさんに対しては

 

 

 

 肝っ玉かあさんって、周りは大変ですよね

 

 

 

と話し、

また別の日には

Bさんに対して

 

 

 

 肝っ玉かあさんのフリをするのも大変ですよね

 

 

 

と話しています。

繊細な我が子に介入しすぎないように気をつけながら見守るBさんに寄せた視点・文脈で「肝っ玉かあさん」を使うこともあれば、強引な人のやり方を美談として成立させるキャストとして存在するつらさという文脈での、Aさんの視点に寄せた「肝っ玉かあさん」もある。

これからどれだけ言語解析が進化したとしても、AIにできないことは、たぶんこういう判断じゃないかな、と思います。

 

 

 * * *

 

<余談>

友人宅からの帰りに、キンメ電車に乗りました。

 

伊豆半島を走る、金目鯛デザインの電車です。シックな黒船デザインの電車に以前乗ったことがあったけれど、こんなド派手なのもあるんですね。

通常料金で乗っていいの? というくらい派手でびっくりしました。