世界の流れが変わって一年になりますね。
このブログでも何度か書いてきましたが、わたしは昨年の2月から転職活動をはじめ、その後も何度か試されていると感じることがありました。
生活の見直し課題も強制的に降ってきました。あらゆる関係性に変化が起きました。
そのなかで、自分が感じる心理的安全性について、ひとつ気がついたことがありました。
わたしは、あることをやらなくて済む状況に安心感を得て幸福と感じる、メンタル面でそういう性質を持っているようです。
どこかで誰かが心の支えにしている存在に対する断罪や悪口を
「代弁」させられることがないのはしあわせ
”存在” は人であったり、組織、サービス、ブランド、機能、土地、集団、文化、ポリシー、いろいろあります。帰属意識を支えるもの全般。今回気がついたのは、「代弁」のしんどさでした。
自分の中から湧いてきたわけではない感情を言わされたり、あるいはそう仕向けられると、人格をコントロールされている事実に凹む。それを自分の中でうまく言語化できずにいました。
言語化できなかったのはなぜか。それはたぶん、そこに好き嫌いが介在してしまうと状況が複雑になるからです。
なにかを自分に代弁させようとする人を好いていたり(あるいは尊敬していたり)すると、つい自分の人格を差し出したくなってしまう。
いまは、その人のことが好きであっても、人前でそれをわたしに言わせようとするのは卑しい考えと切り分けます。「それは、求めすぎやで」と心の中でつっこめるようになりました。(こういう時のわたしの脳内ヴォイスは、なぜか関西弁です)
わたしは自分が友人に愚痴を話しているとき、本来ならば聞いてもらえるだけでありがたいのに、それだけでは足りなくて味方を求める気持ちが起こり「あ、いまわたし、卑しい」という意識が一瞬よぎることがあります。
こういうことに、友人と対話を多く繰り返すことで気がつきました。この一年は、そういう一年でした。
「会うなら少人数で」「普段から関わっている人と」「リアルは避けられるなら避け、オンラインを活用しなさい」という社会のルールが生み出してくれたのは、一対一の対話を数多く行うという、これまでの考え方でいえば非効率な選択。
東京に住む人とは、よく一対一で会いました。海外に住む友人ともオンラインで話しました。話しながら何度か「あ、いまわたし、卑しい」と思いました。それでも対話は流れ、進んでいく。
この「進んでいく」ことのエンジンにあたるのが、世間で信頼関係といわれるものなのでしょう。ボートのオールの右と左のように、たくさん漕ぐうちの何回かに引っかかりや失敗があっても、それでも進んでいく。
自分のことはどんなに嫌いになっても付き合っていくしかない。
だから、そうならないための思考の整理は大切です。
今日は、「代弁」させようとする人と防御なしに向き合えるようになるまでのことを書きました。
わたしはヨガを、"他人を恨まない思考の技術が伝承されたもの" と思っているので、こういうことをよく考えます。