小説『深い河』を読んで著者の人柄がとても気になり、この本を読みました。
視点も文章もまったく年齢を感じさせなくて、戦争の話も出てくるのに、わたしの苦手な懐古主義の香りが皆無。こんな意識で思考できる70歳になりたいと、精神的指標にしたくなる。そんな人間性に惹かれました。
この本は対談集で、いろんな雑誌の対談をまとめたもので、1990年の「プレジデント」3月号の横尾忠則氏との対談では、有名人同士がこんな話をしていたの?! と思うようなことが書かれており、そりゃカルトも流行るわけだと思わせる時代の空気を感じます。
横尾氏が1987年の5月から2年間チャネラーを通して霊性の高い宇宙人と交信していたことを語っているのですが、遠藤周作氏の発言が「はァ。」や「ほう」ばかりで、その温度差もおもしろい。
1988年の女子パウロ会修道院出版「あけぼの」に掲載された、『沈黙』を英訳したW・ジョンストン氏との対話は、わたしがヨガにのめり込むふりをしながら逃避しようとしていた価値観、きっかけとつながっているように感じました。
お二人ともキリスト教にしっかり軸足を置きながら、仏教の話をされています。仏教では自我の放棄というのは執着を捨てるということで愛も執着だと説くけれど、われわれは愛を執着だとは考えない、悪についての考え方も違うというという話をされています。
そしてその少し後に、ヨーロッパやアメリカの人たちがキリスト教的なものの考え方に疲れてきた、アリストテレス的な論理学にくたびれてきた、という話をされています。
この流れは、少し前に読んだ『食べて、祈って、恋をして』の主人公(=著者)の逡巡そのもの。90年代に入る頃には(2001年のアメリカ同時多発テロのさらに10年前の時点で)、そのように感じている人がすでに多くいて、『食べて〜』のヒットの精神的土壌がかいま見えた気がしました。
そして今回は一箇所、とても気になった箇所があり、付箋を貼っていました。
1994年に文芸春秋の「マルコポーロ」に掲載された本木雅弘氏(モッくん)との対談で遠藤周作氏(師)曰く・・・
生きていれば、いろいろと誤魔化す手段がありますでしょう。恋愛したり、仕事したり、けっこう楽しいことってあるんです。だけれども、四十五歳ぐらいからそういう誤魔化しが効かなくなる。何かやってても、「これだけじゃないぞ」という感じがどこか心の中に残る(笑)。
わたしの中で「ドーン」「ぎゃー」「ジャーン」「ピコリーン」といった音がいろいろ同時に鳴りました。
この少し前に、こんな発言もされています。
インドでは生活と人生が一緒になっている。日本では生活しかない。日本の多くの人は生活だけが全てという考えです。日本の社会に長く身を曝していると、もう叩かれたり、蹴られたりして(笑)、自分自身の人生をきちんと考え、整えることができない。
この前後の会話がすごくおもしろくて、世間を客観視しながら「(笑)」の入る軽快な調子が続きます。この感じが、『深い河』を読みながら感じた絶妙なバランス。
この時の遠藤周作さんはとっくに70代のはずなのだけど、もうほんとうにほんとうに、とにかくすてき。心の中でキャーキャー言いながら読みました。