1992年の本です。20年前。対談に登場する「よしもとばなな」さんはまだ「吉本ばなな」で、キッチンとTSUGUMIが出たあと、アムリタ以前というタイミング。大学生のころ、雑誌「STUDIO VOICE」で横尾忠則氏の精神世界コメントに触れてはいたけれど、当時この本を読んでもいまのような感想にはならなかったな。
解説は和田誠氏。このブログで紹介したことのある人物ではほかに梅原猛氏、中沢新一氏、草間彌生氏という面々。このブログ読者さんには荒俣宏ファンも必ずや多くいらしゃるのかと思うのですが、荒俣氏も登場しますよ。
ほかには淀川長治氏、栗本慎一郎氏、河合隼雄氏、島田雅彦氏、天野祐吉氏、最後は映画の黒澤監督。たまらん組み合わせばかりです。
一貫性があるのは、このころ横尾氏が「滝」の絵を書いていたために発生する談話と、中沢氏との対談の末尾の横尾氏の言葉に代表されるメッセージ。
ぼくは二十世紀には全然興味ない。自由とか解放のされ方が個人じゃなくて、社会に転換されている。絶対間違った方法を取っているよ。
社会が自由を保障するためのあれこれ。
いまは「保障」は信じられないけれど、短期的な「保証」をされると安心。それが粉のように舞って霞んで見えるのが、「いまの雰囲気」とわたしは感じている。味覚でさえも「レビュー」に嘘があったと騒ぐ時代で、保証願望は増しているように感じる反面、自分の感覚を信じる人たちがふるいにかけられて、かえってそういう人たちの、「個人の思想」が太く繋がりやすい世の中にもなっていると思う。
この時代をおもしろいと感じられるかと言われると「これもまた過渡期」という感じで、この本が書かれた20年前とはあまり変わらない。この本はいまの分類ではいわゆるスピリチュアル系の本になるのだと思うけど、なかでも栗本氏と天野氏が引き出す横尾氏の言葉がおもしろかったです。
何箇所か、引用紹介します。
<淀川長治氏との対談より>
淀川:いいですね。あんたは電気入るね。見事だ。あんたの絵がそれでいよいよぼくはわかりました。
横尾:分析されたみたい。
淀川:ほんとに分析した。もうなんにも訊くことない。ぼく書いてきたの。あんたはあの世はあると思いますかなんて書いてきたの。
横尾氏が「ぼくがいろいろ訊きたいのですが」と言っているのに、淀川氏がワクワクしながら事前に質問をたくさん用意してきているおもしろい対談でした。淀川氏は「創られたもの」への興味の示し方に異常なものがある。この茶目っ気はすごすぎる。
<吉本ばなな氏との対談より>
横尾:芸術家でいちばん危険なのは傲慢ですよね。自分の力でやったと思ったとき。ところが霊感によってやったと思ったら、謙虚にならざるを得ない。 "描かされました" とね。霊感やインスピレーションで描いていないと、やっぱり訴える力は弱い。
吉本:自我でやっている人は、何か大変そうだなって思いますよね。
横尾:ばななさんは、シャーマン的なところで、そういうものをちゃんと受け止めてますよ。
吉本:小説以外には、生かされないだろうなっていうのはあります。小説に還元していくしかないんだろうなと思うから、書くことをやめて、どこかにいこうかとは思わない。そして結局……普段の頭とまったく違う頭で書いていますね。
横尾:普段、アホでもいいんですよ。
吉本:……まさか、それは(笑)。
感覚がとんがりまくった大ブレイク作家の女性を相手に「おじさんがほんとうのことを教えてあげようか」という雰囲気なのがおもしろかった。20代後半で「自我でやっている人は、何か大変そうだなって思います」って(笑)。
<栗本慎一郎氏との対談より>
横尾:ぼく自身は国会議事堂の上空にUFOが出現して、そのままとどまってくれれば、それでものすごく変わると思うんです。毎日、朝日新聞の一面にはUFOの記事だけが載っているというような(笑)。
栗本:そうならない理由は簡単です。そうなったらものを考えたり、努力することを止めて、どうUFOに取り入るかになってしまうでしょうね。人間の現状ではそうなってしまうんじゃないでしょうか。
この栗本氏の返しに、ズキューン。
<荒俣宏氏との対談より>
荒俣:狂気とは、普通なら非合理ということで済んでいたものが、病気の部分にしてしまったものだから、いろいろと問題になってしまい、その分、現代では管理がきつくなっていると思います。
横尾:そうですね。
荒俣:なぜ、いま狂気が病気にされてしまっているかというと、これが正常なんだよという基準が人工的に作られ過ぎてしまっているためだと思います。
狂気認定、迷惑認定の条例が増えすぎだよなぁ。
<天野祐吉氏との対談より>
天野:コンピュータという絵筆を使ったら実は簡単に見える世界が、いままではコンピュータがなかったから、なかったことになっていた。それをこの道具を使うことで、新しい分野を掘り当てた、という感覚がありますか。
横尾:ありますけど、それは視覚という一つの肉体的な感覚だけを拡大したのに過ぎなくて、
本来持っている知覚能力、見えないものを知覚認識するその力というのは、もしかしたらこれが代行しているから、退化していくかもしれないです。その恐ろしさはあります。これを動かしたり指示するぼく自身というのは、抜け殻みたいなものです。単に装置かな。肉体だけで、こちらが霊みたいになっちゃって。
天野:単純にいうと、車を使いすぎると、足が退化するようなもので。
横尾:こちらが本体になってしまったら困りますよね。ぼくの中に、肉体と同時にアストラル・ボディーがあるけど、コンピュータがアストラル体で、これがすごいことをやっていて、肉体のぼくはそうじゃない。
アムロもそうなんですよ、きっと。(参考「ガンダムとインド」)
<天野祐吉氏との対談より>
天野:「悩み」なんていう言葉を作った途端に、悩むということについて安心してしまう。それで、今後は悩みを悩んだりするわけです。
横尾:そうですね。だからだんだん自分を裁いていってしまうんですよ。それで善悪つけてしまって、今度は自分を責め始めますよね。
「安心が不安なのだー」と。
<黒澤明氏との対談より>
黒澤:役者への評価っていうのもおかしくって、この人はよかったなっていう人が誉められることはまずないね。困ったなコイツは、どうしようもねえなって思ったヤツがたいてい誉められる。なぜそんなことが起こるかっていうと、ごく自然にすんなりやった人っていうのはあとで見る人の目にはあんまり留まらないんだな。ヘタクソで、もたないから仕様がなしにあれこれ色々やらせると、結果的に目立って誉められる。
横尾:それも困ったもんですね。
(このあと黒澤氏は寺尾聡さんとリチャード・ギアさんを絶賛していました)
審美眼への警告なのだけど、これからは「評価」のノリやシステムがどんどん変わっていくのだろうな。ミシュランを辞退する店もあるし。わたしこれは、すごくいい風潮のように感じています。
賞と品質保証の区別があいまいな状況で、そんなに長く受賞ラベルの更新料ビジネスが続くと思えない。「ほんの数人のの絶賛」でマーケットに乗るものも増えてきた。
引用紹介はしませんでしたが、梅原猛氏との対談もおもしろかったです。やっぱりこの人すてきだわ、と。
草間彌生氏との対談は仲介の司会者が入る形で展開されていたのだけど、これはまあ、読んでみてください。途中で草間氏がギブアップしたがっちゃう。芸術家同士となると、特別な雰囲気になるのかな。
「巫女と学者のパーティ」みたいな本でした。