わたしは近頃よく目にする言葉について、意味がわからなかったり自分の場合はどう使うことになるのか不明なものは、使わないようにしています。
今日はそんな保留ワードのひとつだった「共感性羞恥」あるいは「共感性羞恥心」について。
先日、その使いかたならわかる! わかった! こう使えばいいのか! と思うことがありました。
先日、以下の本を読んで「もう、共感性羞恥がすごくて!!!」と感想を話してくださったかたがいて、くわしくお話を伺ったら、その使いかたならわたしもわかる!!! と思いました。
恥の経験は傷にもなるけれど、理性を育てていく上では教材にもなります。
わたしはそんなふうに思っているので、自分が恥をかいたり傷ついたりする機会を最小限にすることを選びたくなった時には、あえてその逆を行こうとする考えを大切にします。
この小説『流れる』は、
自己顕示欲を抑制できなかったことを恥じる気持ち
この書き方が、なかなか類を見ないほど絶妙な小説です。
出しゃばってしまったと感じるときに起こる気持ちがメタ的な視点で書かれています。
同じ行為でも、あとで出しゃばってしまったと感じる場合と、そうでない場合があります。相手の反応によってそれが変わる場合もあるし、出しゃばらないと前に進めないこともある。
あの人、あんなにアピールしちゃって痛々しい。と言われても、心の中で中島みゆきの「ファイト!」を流しながらグングン突き進む。そういう場面もあります。
だけどこの『流れる』で提示される出しゃばりは、これまで積み上げてきたものを壊してしまうタイプのもの。粋か無粋かの世界での、微妙な判断です。
一目置かれるチャンス、キターーー!!!
このときに欲を抑えられなかった主人公に、読者は「ああああああぁ」となる。
だけどこれ、やるじゃない。やっちゃうじゃない。大いにやっちゃったりするじゃない。
経験値が増えるほど、やれる機会が増えちゃうんだもの。ってことは、長く生きるということは・・・。努力が必要なのよね。生きているだけで長老ポジションが取れちゃう。
この小説は、よい年齢の重ねかたについて考えさせてくれます。
なので身近な人が「あの部分で、うわあああっ!!! てなった」というディテールを話してくれたときには、抱きつきたくなりました。(腕くらいは掴んでいたかも・・・)
こういうのを共感性羞恥心というのなら、わたしはこの反省のエネルギーを積極的に使いながら加齢したいと思いました。
今日ここに書いたような「共感性羞恥」という言葉の用法が一般的ではなかったとしても、10代20代の人が使うそれと40代50代の人が使うそれは、明らかに違うはず。
『流れる』は1955年の中年女性のマインドが描かれた小説です。それを読んで、同時代を生きる人とこういう話ができるというのは、本当にありがたいことです。