この小説には欅坂46が出てきます。わたしはアイドルグループをよく知りません。ダンスのフォーメーションを見ているだけで魅了される9人編成の少女時代(SNSD)とTWICEの動画は観るけれど、地名と数字のつくグループには同じ感情を抱いたことがなく、自分の中でオリンピックの卓球と温泉の卓球のような見かたの違いを持っていて、わたしもおじさんの視点を内在させています。
おじさんはオリンピックの女子卓球ではなく温泉の浴衣の女の子の卓球が見たい。なんならちょっと参加したい。卓球そのものの技術よりも温泉的な気安さ・演出・価値観を重視する。それは会社組織も同じで、そもそも職能を求められていない場面がある。あの卓球とこの卓球はそもそも違うことをわたしは社会の中で、肌感で理解してきました。
おニャン子クラブが流行った頃は東京のお姉さんの世界で起こっていることだと思っていたので、その価値観を自分の中で問題視することはありませんでした。
地名+数字のグループも同じ人がプロデューサーですが、人気投票と販売数と直接触れられる権利が掛け算にされる仕組みに、すでに大人になっていたわたしはこんなことが流行るなんてと驚きました。あのアイドルグループに入る人はそのビジネスモデルのなかでやっていくことを承諾している。そんな露骨な諦めの世界が広がっていることに驚きました。
そして時代ごとに変化する諦めの範囲の問題は、一般人の社会生活とも地続き。ああいま自分は、女性アイドルが丸坊主になり自ら恋愛を秘密で行ったことについてお詫びを動画を配信する、そういう社会の中にいるのだなという諦念。若い女性が奴隷としての従属力を発揮し、忠誠心を証明するためにテクノロジーを駆使している。なかなか受け入れがたい現実です。
そのエンターテインメントのあれこれに沿って書かれたこの小説を最後まで読み、肉体を持った時点で避けられない問いの向こうに希望を見るためにはここまでSF化するしかないのか、これは夢の話? 著者は希望を見いだそうとしている? とさまざまな疑問が起こりました。わたしはそこに希望を見る考えがないので、こういう話を生み出すエネルギーの出どころがまだ理解できていません。
わたしはすでに、もう手を付けられないくらいおじさん化してしまったのか。品のいいおばさんを目指したいのだけど、道を外していないだろうか。物語を追いかけながら、そんな振り返りをしました。
さて。今週から師走です。
毎年この季節になると、かつて所属していたヨガ教室の忘年会で集合写真を撮る時に寄せた体をいつまでも離してくれない、握った手を離してくれないおじさん受講者がいたなぁと、年に一度のこととはいえ魂の減るイベントがあったことを思い出します。
そんなわたしから見れば握手会に対応するアイドルの女の子たちは猛者でありアスリート。この本ではおじさんが滅ぶべき存在とされ怒りの感情がてんこ盛りなのだけど、わたしはそれを忘れたくて自分をおじさん化させる道へ逃げてしまったな…、革命にjoinできなかったな…と疎外感も抱きました。
組織の忘年会がこのパンデミックを機に絶滅するとしたら、きっとこの小説に登場するような人たちの革命がうまくいっている証拠。歓迎会や送別会とは違うあの「忘年会」ってのはクセモノよね。主役が決まっていない会だから無礼講っぽい気分になる人が出てくるのかな…なんて当時は分析していたけれど、いずれにしても、この点においてはソーシャル・ディスタンス万歳と思う2020年の12月です。
この本のタイトルの "持続可能な" は「魂」にかかっているのか「魂の利用」にかかっているのか。英文のタイトルを読むと後者に見えるのに日本語だとそう感じないところもまた、なんだかおそろしい。