ここしばらく、日常を通じて考えたことを書きたい気分になっています。
これは人生経験に関するトピックを取り上げて端的に語れる話ではなく、たとえば今年になって白髪の話を友人にしても、かつての仕事仲間には10年以上前からすでに染めている人がおり、なにを今さらという顔をされる。逆に五十肩については「えええそんなに運動をしているのに」という顔をされる。
身体以外にもいろいろあります。むしろその話がしたいのです。もっと日々の思いの根底にあるものについて。
自分にとっての「よい感じ」のイメージ
わたしはよく「こうならないためには、どうすればいいかな」という考えを立ち上げます。それはいまの社会の風潮とその延長線上にあるであろう未来をイメージすることとワンセット。
それについて整理しながら日々を過ごすうちに、変えたほうがよい習慣に気がついたので、昨年からそれをはじめています。
文章を書いてすぐには公開しない、書いた文章は何日も寝かせる、そのかわり最初は思いっきりぶちまけるように書く。そうすることで、自分の抱えている危うさが具体的に見えるようになってきました。
心のことも身体のことも、乗り越えるとか乗り切るという威勢を含んだスタンスではなく、できれば観察しながら味わっていきたいんですよね…そう。五十肩のように。五十肩の観察はまるで植物を観察するような楽しみがあります。なんで今日はこの角度で伸ばせるの! と。
ちなみにいま現在は五十肩を見失っています。五十肩が逃走中。どこ行った。せっかく観察しようと思っていたのに…。
心のありようの目標を見つけた
わたしは武勇伝や演歌っぽい話の調子がどうも苦手で、ヤンキーカルチャーも感動ポルノもシャーンティなスピリチュアル・メソッドもコントのネタとしてなら楽しめるけれど、自分ごととしては照れてしまう。日常的なモヤモヤの吐露のしかたがわからない恥ずかしがり屋。そういう、ちょっとややこしい性格です。
でも昨年、まさにそんなイメージで関係ないジャンルと思ってきた林芙美子の小説を読み始めたら、ぜんぜんダサくなくて驚きました。苦労しててもおしゃれのです。うっかり見落とすところでした。それまでは「放浪記=でんぐりがえし」のイメージで、よくある女のうざい苦労話だろうと勝手に思っていたのでした。
よくある女のうざい苦労話
自分で書いていてものすごいパワーワードと感じます。ここまでいくと呪詛。
負のパワーワードを分解する
こんな呪詛が思い浮かんでしまう自分の中の思い込みを分解してみました。
- 「女のうざい苦労話」は「よくある」ことなのか
- 「よくある女(たくさんいる凡庸な女)」の「苦労話」がうざいのか
- 「女」はそもそもうざくて、「苦労話」を「よくする」と思っているのか
- 「女」は「苦労話」を盛って「うざくする」性質があると思っているのか
- 「苦労話」を「女」がすると「うざい」と「よく(頻繁に)」感じるのか
加齢とともにこうなる自分から避けられない人生を送るくらいなら消えてしまいたい。いまにも自分の毒が回って死にそう。わたしはどこでこういう思考をインプットしちゃったんだろう。
泥沼からの突破口のような出会い
自分のなかにある悪感情から目を背けず、ぴろんとつまみ上げてまるでデッサンをするようにひとつひとつ描いている、そんな作家の仕事ぶりにふるえました。
林芙美子作品に共通してある、うざくてずるくてせこい自我への向き合いかたへの圧倒的な根性のようなものを見せつけられて、ここまですごいと嫌じゃない。もし同時代に生きていたら嫌っていただろうと思うほど、そこに書きだされている感情はまるで自分の毒のよう。見透かされまくりまくりすてぃ。
精神的加齢にビクついていた自分に向き合えた
わたしはビクついていたのでした。武勇伝や演歌っぽい話をうっかりやってしまいそうな自分に、そしてそれをやった後に自分をさらに責めるであろう自分に。
年齢を重ねるとそれなりに「苦労話」のネタもあるもんだから、それを雑に出さないようにしなくちゃと自分を戒める。そんな数年を過ごした先に、なんかええもんを見つけてしまったのでした。出会っちゃったわ~。
この作家は47歳で亡くなっている。その終盤の鮮やかな駆け抜けっぷりに触れて、なんだかわくわくしています。