偏頭痛をきっかけに「身体語」を意識するようになった五木寛之さん。どうやらはじめに習ったヨガ指導がいまひとつだったかもしれない五木寛之さん。真向法がいまひとつ長続きしていないらしい五木寛之さん。野口晴哉先生の教えに共感しまくっている五木寛之さん。メガネのフォルムがナイスすぎる五木寛之さん。あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛、とばかりに自愛を真剣に経験で科学する五木寛之さんであります。
経験による自論炸裂の「養生の実技」は、まじめにヨーガをやってみたりしているうちこも太鼓判な項目ばかりでした。
先に、巻末にある【私自身の体験と偏見による養生の実技100】から、グッときた特選5項目をピックアップします。
項目13:中心は辺境に支えられる。心臓や脳を気遣うなら、手足の末端を大切に。指先、掌、足裏など。
項目14:足の指の一本、一本にも個性がある。ときどき、じっと眺めてみること。
項目49:人間は地球という生命体の寄生虫。その虫にまた沢山の寄生虫が共生している。そのような寄生生物をすべて殺してしまえば、宿主も死ぬ。
項目61:医学は進歩の過程にある。医学に完成はない。病気も同時に進歩するからだ。
項目72:ストレスを少なくするために、仕事を減らして毎週ゴルフにいきはじめた友人がいる。彼は短いパットをはずす不安でノイローゼになった。
スワミ・イツキの教えは、いつだって「生きもの」感覚。
何箇所か紹介します。
<28ページ 治療と養生のちがい より>
養生と治療とは、どうちがうのか。
人間観というか、思想がちがうのだ。治療という考えかたの背後には、人間は本来、調和のとれた理想的な身体をもって生まれてきた、という感覚がある。
機械でいえば、燃料さえ補給してやれば、万事、快調に動くのが当たり前と考えているのだ。そこに異常が生じる。故障をなおすように治療をおこなう。修理が終れば機械はもとどおりに快調に作動する。
私の人間観はそうではない。人間は生まれた日からこわれていく。老いるとは、そういうことだ。しかも、不自然で、非合理な部分も数かぎりなくある。神秘的といえるほどすばらしい働きもそなえながら、同時になんとも情けない幼稚な部分もある。
そこを苦心して、少しでも良いコンディションをたもち、故障をおこさないように工夫するのが、養生ということだろう。
とてもアーユルヴェディックです。
<83ページ 千日回峰行の衝撃 より>
私はその難行を貫徹した大阿闍梨と会って、いろいろ話をうかがった。おだやかな風貌の小柄なかただった。
「どうしてそんなことがあり得るんでしょうね」
ときくと、行者は少し考えて、こう答えた。
「行だからですよ。スポーツだったら無理でしょうね」
その日のことが、いまも私の記憶から離れないのである。
「できるものか、できないものか」ではなく、「やるか、やらないか」。
<95ページ 面倒なことはしない より>
ヨガにしても、気功にしても、それが養生法としてすぐれていることはまちがいない。しかし、あまりにも厄介で、面倒なことが多すぎる。その道の奥の深さに感動して、そのとりこになってしまえば、それはすでに養生法ではない。
この、五木氏の「厄介」とか「面倒」の尺度が、この本全体の面白みでもあったりする。
<96ページ 一日分ずついのちを全うする より>
岡田式静坐呼吸法を提唱して一斉を風靡した岡田虎二郎は、四十八歳で死んだ。彼の信奉者だった当時の知識人たちは一大パニックにおちいったらしい。十年以上も一日も欠かさず岡田式を実践した相馬黒光が、ショックを受けてその日から呼吸法をやめたという話もある
天才的な養生家だった野口晴哉の六十五歳というのも天寿というべきだろう。
偉大な宗教家たちも従容としておのれの天寿に就いた。日蓮上人六十歳、道元禅師五十三歳、空海の六十一歳もまたみごとな天寿である。
養生というのは、永遠の命を養うことではない。きょう一日の生命をいきいきと全うすることである。きょう一日のために何かをするのだから、明日もつづける必要はない。明日になればまた別のことをすればいいだけの話だ。
先日生ブログで「沖先生や番場先生のことを話すと寿命を聞いて "ヨギのくせに短命じゃねえか" とかいう意地の悪いジジイがいたりするのだけど」と愚痴りましたが(笑)、天寿ですそうです、それが言いたかったのです。
<109ページ 呼吸を自律神経に返す より>
親鸞の「自然法爾(じねんほうに)」という思想を、私は有名な「悪人正機」よりも高く評価しているが、この「自然(じねん)」とは、一般的にいう天地自然のことではない。
「自然」という文字を、親鸞は「おのずとしからしむる」と読ませた。
「そうする」ではなく、「そうなる」と考えるのだ。
親鸞は、法然に伝授されたことと併せて世相の中からこの思想にたどりついたところがたまらない。大人気なのがすごくよくわかるし、もっと人気が出ないといけない。
<206ページ ストレスは人間の宿命である より>
光と影は一体である。それを分けることはできない。影はいらない、光だけをふやせ、というのは無理な話だ。光がつよければ、当然、影も濃いのである。
ストレスは避けることができない。そしてストレスはストレスである。それを光にするか影にするかは、私たち自身の姿勢ではないのか、と私は思う。
「それを光にするか影にするかは、私たち自身」。
<185ページ 「申し訳ない」と思う自責のストレス より>
たとえば、私の最大のストレスの一つは、
「申し訳ない」
と、いう自責の念の重圧である。朝から晩まで、申し訳ないという気持ちを抱えて生きている。
一つの例をあげよう。
私のところへは、平均して一日に三十冊あまりの単行本が送られてくる。くわえて二十通以上の手紙がとどく。この数字は年とともに、さらに増えつづけているのが現状である。
(中略)
一週間、旅をして帰ってくると、いつも二百冊以上の本が居間に積みあがっている。
あきらめるに至るまでの真摯な対応っぷりがすごいエピソードの一部。大作家ともなると、ほんとすごいんだなと思う。あんなに旅してることが知られている人なのに、こりゃ大変だ。
わたしはたぶん、五木寛之さんの本を愛読しはじめる年齢が早すぎた。
さしあたって、「女子力」以前に「ヤング力」が必要だ。来年のテーマはそれにするかな。
★おまけ:五木寛之さんについては過去に読んだ本の「本棚リンク集」を作っておきました。いまのあなたにグッとくる一冊を見つけてください。