"有意義" から脚抜きできなくなっている人を見て、くるしそうだなと思うことがある。
瞑想の練習をしても、きっと空白を空白で埋めるのはむずかしいだろうなと思う。
空白を "有意義" で埋めようとする
空白を "いいこと" や "有意義なこと" で埋めにいかないという意識の選択を連続的にやることを苦痛に感じるのは、瞑想の練習のいくつめかの難関。これは、けしからんことをした人を攻撃したい気持ちを抑える苦痛とよく似ています。気がつくと反転しているだけだったりして。
空白を放置できない有意義ジャンキー。わたしはよくこの状態に陥ってきました。
それが10年以上かけて、少しずつですが変わってきました。エンタメ色の少ない小説が読めるようになりました。わたしが昔の小説を読めるようになったのは30代終盤からのことです。
読んでいても話がどうなるかわからないし、それ用にモードを変えるのはおっくうだと思っていました。いまは、有意義かどうかはあとで自分の中でマッチングが起これば起こる、そういうものだと信じて、獲得意欲を放置したまま読み進められるようになりました。
アーサナや瞑想の練習の実生活への効用をひとつあげるなら、わたしには実体験としてこのようなことがいえます。
今日のタイトルは、過去の自分に向けての言葉です。
▼これの女性版みたいな感じね