うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

読書は、感情の海に潜る練習をプールでやっているような感じ

以前は絵の浮かぶタイプの小説しか読めなかったわたしが、具体的には江戸川乱歩的昭和レトロなものしか読めなかったわたしが、メキメキ小説に手を出せるようになって数年が経ちました。近ごろは外国の小説も読めるようになっちゃって、まさかこんなふうに本が読めるようになるとは、かつては想像もしていませんでした。
これもひとえに、Qちゃんにとっての小出監督のように並走してくれる友人のおかげ。会うたびにおすすめの本を貸してくれたり質問に答えてくれるその友人から夏に「最近、ブログの文章がなんかちがってきてる。なんかおもしろくなってる」と言われました。



 ほんとぉぉぉぉ?!



久しぶりに、ウキッとしました。
ずっと練習していた、むずかしいと思っていたポーズができるようになった時のようなうれしさです。
たくさん読んだことで回路が通ったのかな。こういうのもアーサナの練習と一緒なのだから、おもしろい。
そしてそうなった今、気づいたことがありました。



 以前は、人間の感情を見るのを怖がっていた。



他人の感情も、自分の感情も。
でもいまは、設定を通して見えるさまざまな感情のなかに自身の弱さを見ても、



 お。おおお。そこに、あったか。こんな感情が。
 反応しちゃったな〜、自分。
 あぶりだされちゃったな〜、自分。
 この作家、うまいなぁもう。



となって、そのうまさが「どういううまさ」であるのかを見るのが楽しみです。設定の妙なのか、リズムの妙なのか、言葉選びの妙なのか。
ちょっと引いて読んでいるからといってつまらないわけじゃなくて、むしろもっと読みたい。
ここはプールなのだとわかったから、安心して感情の海で泳ぐことができる。そんな感覚です。



 漠然と嫌がって、怖がっていた。



小説が読めなかったころのわたしは、なにかを恐れていたんですよね…。それはたぶん人間の本音とか本性とか、そういうもの。
でも大人になると、免疫をつけておいたほうがよいことがたくさんある。フィクションだとわかってはいるけれど、予防接種のように読んで感情を知っておくことで、自分の中で思いがけない感情が起こっても「あ、あの本の、あれかも」となる。


わたしは読書会というのを不定期で開催しているのだけど、続けてきて思うのは、あれは心の中で放置してきた感情の筋肉を動かしているのだなぁ、ということ。
自分の心がわかったフリをすることほど怖いものはないと、いまはそんな考えに変わっています。