うちこのヨガ日記

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アタルヴァ・ヴェーダ讃歌 ― 古代インドの呪法 辻直四郎 訳


4ヴェーダのひとつですが、まえがきに「リグ・ヴェーダ讃歌」ならびに「インド文明の曙」を参考とされんことをお勧めする、とあります。
読んでみるとそりゃそうだという内容で「呪法」特有のびっくり項目は数知れずという感じですが、「恋仇の女子を詛うための呪文」なんてかわいいものもあります。一方、のちの「マヌ法典」に通じていきそうな「兄に先立って結婚する弟の罪を消すための呪文」もある。
「ハタ・ヨーガ・プラディピカー」などの技術書にも見られるアンチエイジング項目「頭髪の生長を増進させるための呪文」もなかなか美しい響きを想起させる文字列で訳されています。

  • 古きものを強固ならしめよ。いまだ生えざるものを生えしめよ。また生えたるものを一層長からしめよ。
  • 根を強固ならしめよ。先端を伸ばせ。中央を拡げよ、薬草よ。頭髪が葦のごとく生長せんことを、なが頭より黒々と(asita)。

(上記いずれも62、63ページ)

美しいなぁ。カタカナにすると「リアップ」の4文字で済んでしまうが。



インドは何がすごいって、さまざまな日常的な嫉妬や恨み、やんごとなき次第による感情を、なんと紀元前1000年くらいの時点でしっかり韻を踏んだ文章にしている。(韻律にしている)。
喩えは少々乱暴ですが、弥生時代よりも前に、インドではすでに言語をあやつって関白宣言のさだまさし級のことがなされていた。


この本を読んでいると、バガヴァッド・ギーターの時代(B.C.1〜A.D.1)の単語の定義よりも細分化される前の解釈も興味深いところ。
たとえば「熱病を癒すための呪文」(31ページ)にある以下の節は

タクマンよ、いたるところ砒素を振りかけられ(vy-ala)、疾患に取り巻かれ(vi-gada)、斑点に蔽われ(vy-anga)、多くの苦痛をかもす者よ、放浪する奴隷女(nistakvari dasi)を求めよ。彼女を電撃もて襲え。

ここでの「電撃」(vajira)は好色の意味を含んでいると注釈にある。




かわいらしい事例としては、「骨折を癒すための呪文」(48ページ)

もし彼が穴に落ちて打ち砕かれたるとき(骨折)、或いは投げられたる石が彼を撃ちたるとき、リブ(「工巧神」)が、車の部分を[修理する如く]、[ダートリは]接合せんことを。関節と関節と[繋ぎつつ]。

美しいなぁ。こういう気持ちがあれば、大げさなギプスは要らないかも。




「スカンバ(支柱)の歌」(210ページ〜)には特に美しい歌が多く、なかでも

  • いかなれば風は静止せず、意(思考力)は休むことなきか。何故に水は真理を求めつつ(法則どおりに流れること)、かつ静止することなきか。
  • 未曾有のものに促されて言語は、それぞれ適当に語る。語りつつ言語が帰りゆくところ、そを人は偉大なるブラフマンの威力と呼ぶ(言語の本源)。

このへんは、こんな昔にすでにこんなことを! と驚きをもって読むしかない趣がある。


同じく「スカンバ(支柱)の歌」の

  • そこに神々および人間が、車の輻(や)の轂(こしき)におけるがごとく、依止するところ、そこに幻力(maya 不可思議力)により、「水中の花」(apam puspam 創造神の一名)の置かれるところ(創造の本源)、そをわれ汝に問う。
  • 九門(人体の孔穴)を有せる蓮華(心臓)は、三性(guna)に蔽われたり。その中にある神的顕現(yaksma アートマン)は、ブラフマンを知る者ぞ知れ。

このへんは、流出論とヨーガの関係の根っこの理解を助けてくれる。




「ブーミ(大地)の歌」(217ページ〜)にある、以下はグサツと沁みる。

女にあれ男にあれ人間の中に、幸運・魅力として存する汝の香り、馬・勇士の中にある香り、野獣・象の中にある香り、乙女の中にある光彩、大地よ、そをわれに帯ばしめよ。何人もわれらに敵意を抱かざらんことを。

シンプルに生命力として輝きたい。ただそれだけのことを願っても、人の嫉妬にあったり敵意を受けたりする悲しみが離れない、この感じ。



呪い呪われ呪い返し、みたいな世界なのですが、ひとの心についての考察が自然的・社会的・伝統的の多重層であること、そしてそれが宗教儀式と結びついているインド。「リグ・ヴェーダ」や「マヌ法典」と併せて読むと、ヨーガ・スートラやバガヴァッド・ギーターの世界だけでは見えない側面がグッと立体的に見えてきます。「やるせない自然主義」「官能的な道徳主義」「道を外れることも踏まえた伝統主義」、矛盾したこんなフレーズがどれもしっくりいく。
せつなさも爆笑もいっぱいのヴェーダです。