うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

気おくれと自我の関係を観察する

気おくれやアウェイ感について、わたしはたまにひとりで考えます。運動は大好きなくせに大縄跳びに入っていけない、そんな子どもの頃からのジレンマを克服したい。
この気質については考え出すと自分の弱い部分がむき出しになるのでつらいのですが、それでも考え続けていたら自分のことが少しずつわかってきました。
アウェイ感について、わたしは3年前にこんなことを書いています。

 


やりたいくせに気おくれするというのは、大人になったら本来ひっこめておくべき感情?
今年インドへ行ったときに、友人とこんな話をしました。スリンダー先生のクラスに参加した後での会話です。

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(このクラスの帰り道で)

 


 わたし:なんか緊張というか、緊張じゃないな…。気おくれした。

 Nさん:えええ? あれだけヨガクラスを受けているのに?

 わたし:わたし気おくれするんだ。こういうの。なんだろう、状況にかな…。

 


このときNさんが「あれだけヨガクラスを受けているのに?」と言ってくれたことで、これは経験や場数でクリアできる性質のものではないことをあらためて認識しました。よくよく考えると、わたしが親方と読んでいるカマル先生のクラスでも、スーリヤ・ナマスカーラが終わるくらいまでは気おくれしているのです。
気おくれという感情についてはいまも分解を続けているのですが、突き詰めると「自立した人になりたい」という願望と紐づいていることがわかってきました。

 

わたしは練習をしても勉強をしても、気おくれをする。そんなわたしに、この日、この会話の後にNさんがすごくうれしいことを言ってくれました。


(さっきの話の続き)


 わたし:先生の最後の説法は、元ネタがわかっていたから安心して聞けたけれど、そうでなければ、いじけてた。そもそも気おくれしてたし…。

 Nさん:「スリンダー先生の深イイ話」ねー。わたしは、うちこちゃんのブログで「サンカルパ」のことを読んでいたから話についていけたよ。

 


この日、スリンダー先生は瞑想とサンカルパの話をされていました。
Nさんは先生から通訳を頼まれるくらい顔見知りで、英語も話せる。自分よりもその場に慣れている人にそう言ってもらえたことで、自分で自分をなぐさめることができました。この空間にいる自分は場違いな身分なのだろうと漠然と思っていた。でも友人の役に立っていることがわかった瞬間に少し打ち消された。この2つのことはまったく別のことなのに。わたしの気おくれはわたしの妄想由来なのに、自分の中でなんらかのトレードオフが起きた。なにこれ。なんなの! このご都合主義的な感情は!
わたしはこの場に限らず、仕事でも場違いと思ってしまう癖があるのですが、結局はさびしがっているんですよね…。自分で自分を応援できてない。だから、かわりに練習をしたり勉強をしたりする。あれ? 一周した。この気おくれは、原動力なのか。

 

ヨガの練習や勉強について、「お前、全然だめだな」とわたしはときどき自分を責めます。自分の認識違いに気づく出来事にあうたびに自分を責めてはダークサイドに堕ちて、戻ってくる。

そんなことを何度もやっているので、3年前にこんなことも書いています。

 


気おくれにもいろいろあって、「自立した人になりたい」という願望もさらに掘り下げると「自立ってなんだ」ということになって、それは「いま気おくれしているということを精確に認識できること」でもあります。「気おくれしています」という感情をとりあえず表明してペコペコして周囲の同情を乞うような、そういう重たい人になりたくないという思いも明確にした上での「自立」。

わたしは自分で立てていることを自分で見てみたい、そういう願望があるのかもしれません。どうやって見ればいいかは、まだわかりません。
重たい人になりたくないという思いと気おくれの中間でもがいていたことがわかるまでに、何年もかかりました。こんなふうに、ジレンマのS極とN極を知ることは自分のためになると思っているので、これからも逃げずにいたい。これもまた別のS極とN極です(しんどい⇔逃げたくない)。

 

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このくらい、ふてぶてしくなれればなぁ~