うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

後先の「先」を考えずに他人の記憶に残ろうとしてしまうこと(「愛するということ」読書会より)

「愛するということ」という本に、孤独と孤立について数段落でグイグイ掘り下げている章があります。

 

この本で説かれる「孤独と孤立」についての分解は、自分のコンディションや周辺の人間関係の状況によって、読むたびに想起することが変わってくる。わたしは人生を短いと思わないけど、この課題解決については同じように考えている。掘り下げるときの感覚は違うのに結論が同じなのは不思議。静岡から出発しても山梨から出発しても富士山頂は富士山頂、というような。

みなさんにとっては、どうでしょうか。

 

(第2章1.愛、それは人間の実存の問題に対する答え より/※太字下線部は本文中に強調点のある文字列)

 人間は、理性を発達させ、もはや取り戻すことのできない人類以前の調和のかわりに、新しい人間的な調和を発見することによって、前進するしかないのだ。
 人類全体の誕生にしても、個人の誕生にしても、人間は誕生と同時に、本能が支配する明確な世界から、不明確で、不安定で、開かれた世界へと投げ出される。確かなのは過去についてだけで、将来について確かなことといったら、死ぬということだけだ。
 人間は理性を授けられている。人間は自分自身を知っている生命である。人間は自分を、仲間を、自分の過去を、そして未来の可能性を意識している。そう、人間はたえず意識している ── 人は一つの独立した存在であり、人生は短い。人は自分の意志とはかかわりなく生まれ、自分の意志に反して死んでゆく。愛する人よりも先に死ぬかもしれないし、愛する人のほうが先に死ぬかもしれない。人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことすべてのために、人間の、統一のない独立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。
 孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
 そればかりでなく、孤立は恥と罪悪感を生む。そうした孤立からくる恥と罪悪感については、聖書のアダムとイヴの物語に描かれている。


  (中略)


 このように、人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば外界も消えてしまうからだ。
 どの時代のどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。

 

初夏に関西でこの本の読書会をしたのですが、上記の部分について参加者の多くのかたが感想を述べていて、それぞれが取り組むべき課題として「孤独」「孤立」について考え、認識した経験をお持ちでした。

あえて言語化を避けてしまうことをグイグイ掘り下げるこの部分を追い、みなさんのお話を伺っているうちに、わたしもふとかねてより思っていたことを口にしてみたくなりました。

 


 他人の記憶に残ることと孤立してないってことって、同じじゃないですよね

 

 

わたしはこんなことを、よく考えるのです。

他人に記憶してもらえていることはとても嬉しいことだけど、それ自体を目的にしてしまうと、とたんに人間関係はおかしくなる。
出会って一度目の会話でいきなりものすごい爪痕を残そうとする人を見ると、他者との出会いが就職面接やオーディションのようにいちいち成功を狙う状態というのは、どのくらい追い込まれた感じなのだろうと想像する。
そういうアプローチになってしまうあの気持ちは、どうやって起こるのだろう。自分も経験があるし、それはもう思い出すとうわあああぁぁぁっと叫びそうなできごと。不安と山っ気が濃い味付けでマッチしちゃったタイミングでの行為って、多くの人が黒歴史として経験しているんじゃないかと思うのだけど、みんなどうやって乗り越えてきたのだろう。


この本には、孤独感という幻を飼いならせることの重要性が説かれていて、ネタバレのようになるけれど終盤は完全にヨガの本みたいになっている。
わたしは人間社会での生存戦略を息苦しいと思わずに、なんとか楽しくゲームのようにやっていけないものかと思っていた時期にこの本と出会ったので、一度目はとても前向きな気持ちで読みました。

二度目はスピリチュアルなことをいう詐欺師と断続的に話をしていた頃に読んだので、「彼の言う Love と Trust と Help と Money を直列つなぎにできないのは、なぜだろう」とか「こうして孤独な時間の隙間を楽しく埋めることは美化できるのに、それ以上のことを要求されると腹が立つのは差別感情だろうか」などの感情とともに、えーと、えーーとこれは第何章にあったかなぁ…とまるで「家庭の医学」を本棚から引っ張り出してページを捲るように読みました。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版