電車のホームや雑誌で見る広告を通じて、著者のイラストを目にしたことがある人って多いんじゃないかな。わたしはそうでした。物事をむずかしくなさそうに感じさせてくれる独特のタッチが印象的です。
書かれていることがとても興味深く、ぷらっと入った書店で立ち読みを始めたら止まらなくなり、買ってきました。ずっと同じことを続けていると陥るジレンマについて書かれた終盤の3つの章が、何度も読み返したくなる内容でした。
わかりやすく教えてくれれば、
わからなくてもかまいません。
とてもおかしなことですが、わたしは仕事で説明を求められた時に、このニーズを感じとることがあります。
細かいところは同じ業務をやったことがある人しかわからない状況について説明する時に、このように感じます。なので喩えを使って説明します。
これは、外部環境の状況説明に対してであれば、そんなに自我は削られません。
だけどときどき、ものすごく孤立した気持ちになります。
複雑な話をわかりやすくするというのは、写真をモノクロコピーで白と黒にかけてしまうような乱暴さを持っている。そうすればクッキリとした海の水平線が浮かび上がるだろう。そのかわり、その写真が持っていた本来の陰影は消えてしまう。
(第6章「わかる と わかりやすさ」より)
わかりやすくするために、グラデーションは捨ててくれ。
わたしが孤立した気持ちを持っていると、そう解釈します。
だけど「孤立した気持ち」はわたしの気分の問題です。
以下の部分を読んで、そのことに気がつきました。
「わかりやすさ」を考えるというのは、「どうしたら人間は活き活きと考え続けることができるのか」を考えることなのだ。
(同じ章より)
「一緒に考えてほしい」という気持ちが自分の中にあることが見えてきて、自分に欠けていた積極性(自分の孤立感のもう一階層下にあるもの)に目が向くようになりました。
「一緒に考えてほしいので説明します」という謙虚さは、なんでときどき、消えてしまうのだろう。
* * *
最後の章に、メタ認知&自分の位置の選択を繰り返していると感情が消えていくことについて、著者の自己分析が書かれていました。ここも食い入るように読みました。
視点が増えていくこと、新しい視点が大量にあることは本当に良いことだろうか、というジレンマです。
わたしはこのことについて、インドのヨガの先生から「違いを探すのではなく、共通点を探すんだ」という教えを聞いて「そうか!」と思ったことがあって、以来、視点がどんなに増えてもそこに共通点を探すんだというスタンスでいれば、心の取り扱いとしては健康的で居られると考えるようになりました。
それまでは、気力が下がってくると「わかるかなぁ。わかんねぇだろうなぁ」という構え方になりがちでした。
* * *
同じ喩えで考えてる! と思うトピックもありました。「マオ的/ヨナ的」というお話です。
わたしも当時のフィギュア・スケートのあのメダル争いを見て以来、何かに対して重きをおく価値の対比に<キムヨナ or 浅田真央>で考える癖があります。キム選手の演技は見る人の気持ちをゾクゾクさせ、浅田選手の滑りは見る人の気持ちを崇高にさせる。
オリンピックはエンタメか信仰かという問いに、この二人がとても象徴的に見えていました。
家庭でも仕事でも、なにか状況を説明する際に、この本に書かれているようなことを考える人ってかなりいると思うのだけど、疲れてくると「みんなが使っている言葉・表現」をちゃちゃっと引用してやり過ごす。そういうことって多いと思います。
そこで消されたグラデーションが後でゾンビのように盛り返してくる。
前半はデザインの仕事の本なのだけど、後半は日々の思索の中で置き去りにされがちなことが綴られていて、エッセイ集のようでした。