うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

だれかの人生のキャストになろうとしてしまうときの、そのありよう(「愛するということ」読書会より)

社会人として外にいるとき、いまわたし、わたしの人生の主役だ。と思えている瞬間はほとんどない。ふとそんなことを思うきっかけがあった。だれかの人生のキャストになろうとしてしまうときの、そのありようについて考えるきっかけがあった。

先日、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本の読書会をしてきたときのこと。



この本にはさまざまな愛を a 兄弟愛、b 母性愛、c 異性愛、d 自己愛、e 神への愛というふうに分けて解説している章があって、「 c の間柄でうっかりbを発動してしまうと面倒なことになりそうで…」という参加者の投球から、わたしはこんなときに…、わたしはこんなときに…と、ほかの人の経験記憶が連鎖した時間がありました。ビリヤードの白い球が色とりどりの球の集合体に当たって、それぞれの球が壁に当たって戻ってきてまたぶつかって音がする。わちゃちゃちゃちゃちゃ…。

 

それぞれが日々、だれかの人生のキャストになるときのありように気を使って暮らしている。愛の発動のさせかたを間違えていないか、考えている。そんなあれこれの棚卸し。あるある話で盛り上がるのでもなく、みんな渋い顔をして「あああ、それな…」とうなずく、ぜんぜんキャピキャピしてない会。
先輩風を吹かせないために母性を混ぜてみたらそれはそれでおかしなことになったとか、言語化のむずかしい「おかしなこと」について、これってどんな愛よ、なに味の愛にすればよかったのよと探り合う。


こうしてみたけど、それはそれでうまくいかなかったという例がこんなにも微細に共有されたケースは、かつてなかったな…。日々「ああしておけばよかったのかな…」と思うことはあっても「ああしてみても、あかんかったで」という話を聞けることって、なかなかないから。
こんなふうに引き出されるものの性質から「愛するということ」は名著だとあらためて思うのでした。ひとりで読んでも、誰かと読んでも、どっちにしても名著。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版