うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

とりあえずの発言によって自分を取り逃してしまったら、あとでひとりで取り返す

先日、友人がこのブログの「日常」カテゴリを読み返していたら自分のモヤモヤとマッチするものがあったと連絡をくれました。
その人はとても礼儀正しくて、わたしよりも若いから生意気と受け取られないように「とりあえずのマイルドな返答」をする回数が多いのではないか。そんなことを類推しながら丁寧に書かれたメールを読みました。

 

あらためてこのことについて考えてみると、「とりあえずのマイルドな返答」によって自分を取り逃したまま自分の中で折り合いをつけられず、その後も発動する小さな防御反応の積み重ねによってだんだん対象者と疎遠になっていく。そういうことがわたしにはとても多いと感じます。
自分の中にある「そこまでOKと言ったつもりじゃなかったんだけどな…」が溜まっていく。言葉を話せるようになった人間の子育てをしている人は毎日そんな感じだろうし、オーダーを受けるやり方で仕事をしている人もこれは常々あることじゃないかと思います。

 

わたしは「ちょっとこれはよくわからない球種だな…」と思う球を受け取った時に、箇条書きで思いを書き出すことがあります。とりあえずのマイルドな返答によって取り逃した自分の心の要素をメモして、自分を取り返す作業をしています。
後悔を書くのではなく、こういうパターンも思いついていたけれど、そのときはこういう判断をしたということについて記録を残す。

 

 

 (こういうパターンも思いついていたけれど)

 

 

を書いていきます。
そうすると、こういうパターンも思いついていたけれどそうしなかった自分が「何を恐れているか」が見えてくる。わたしはだいたいのことを消去法で決めているので、決定の要素が苦手なことの回避であることがとても多いのですが、すぐにはわからない。なんとなく避けたいことって、落ち着いて考えないと見えてきません。


自分が何を恐れているかを探るのはわりとキツい作業で、ずるさやせこさをあぶりだします。潔よくなくてカッコ悪くてダサい自分を見る作業なのだけど、これができるようになると中途半端な自虐をしなくてよくなってきます。

 


自虐と謙遜の区別がついていない人の話は、聞いていてとても疲れます。自分がそう思うので、うっかり発話すると毛穴が開く。わたしが社会で学んだことはまさにこれであったりするので、自分がそれをやらかす機会を減らしたい。

 


 (こういう対応パターンも思いついていたけれど)しなかった

 

 

こういう、「そうしなかったこと」や「ああしたけど、これでよかったのだろうかとも思っている」という中間の思考の記録。
「これでよかったのだろうか」が、誰にとってこれでよかったのだろうかという掘り下げも重要で、ここを曖昧にしているときは心のなかで「よかれと思って」のリスクヘッジを漠然とやっています。

 

  • A:ああしたけど自分にとってこれでよかったのだろうか
  • B:ああしたけど相手にとってこれでよかったのだろうか

 

ここの区別は、自分と相手を同一視していればいるほど難しくなります。
わたしには何人か、宣伝してほしいことやいっちょ噛みしたいことがあるときだけ連絡をしてくる人がいます。その人と関わると以前はモヤモヤしていたのだけど、いまは「A」の思考を認識できるようになりました。そうしたら、その人から離れたいと思う気持ちもなくなりました。その人はとりあえず要望を伝えてみるというアクションを起こしているだけと思えば、「その気がないです」と言える。

コミュニケーションのありようは地域・世代のノリとか業界の商慣習とか、今ではデジタルリテラシーとか、そういうギャップがすごく複雑に絡み合っています。これはこれからどんどんカオス化していくから、きりがない。
なのでアフターケアのように、その後もこねくり回してしまうほどの思いが残ったときには

 

 

 (こういうパターンも思いついていたけれど)

 

 

を書いてみる。
書き出す作業をすると物質化された文字列が目から入ってくるので、取り返した感覚がしっかり残ります。
物質化されていないと過去の自分に不信感を抱き続けてしまう。わたしは自分の書いたものをあとで見ると「うれしかったから、こうした」ということも書いてあって、自分はこういうことをうれしく思う感覚を持っていたのか! と驚くことがあります。

 


情報にふりまわされて自己を見失っていく人が増え、とりあえずの発言が増えてしまいがちなときこそ、自分を取り返す作業が欠かせない。そんなことを思うこの頃です。

 

 

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もうすぐ春ですね。