そこであまり深く考えないほがらかなキャラクターであり続ける、そうすることはこれまで何百回と…なんならデフォルト値がそういう設定でやってきたけど、その前提でいくのもそろそろやめたいな。そういう思いがチラッと見える短編「上流には猛禽類」の視点の持ち主は、まるで30代前半までのわたし。
わたしだって狂いそうなところをすんでのすんでで乗り切る瞬間くらい、これまでにあったのよ。だからあなたも欲望を丸出しにするのはそのくらいにしておきなさいよ! という心の叫び。この短編集に収められた「誰が」の主人公の女性はミランダ・ジュライの書いた「最初の悪い男」の主人公と少し似ている。同世代の海外作家の小説を読むと、世界はずっとつながっていたのだなと今さら気づく。
先に読んだ「野蛮なアリスさん」の印象にやられてこの短編集も読んでみたのだけど、どちらにも共通して言えるのは、他人の執着を第三者として見聞きしている瞬間の心の実況がすごい。わたしのなかで、いまこの人が最強だ。
「30代女性」として生きる10年というのは、いろいろな角度から他人の執着を見聞きする機会が多い10年だ。自分の過去を振り返ってそう思う。八つ当たりや苦情も含めて他者からの自己開示を受けやすい10年。こいつならいいだろ、こいつならいけるだろという「なにか」の受け皿としてカバー領域が広いお年頃。
そこにはもちろんチャンスもあって、たとえば重要な仕事を任されたりもするのだけど、チャンスを受け取っているときにも、それは旧来であればほかの誰かのところへ配布されていたであろうチャンスだったと自覚している。だから、あとで手のひらを返されても「やっぱりね」と納得できる。こういう「やっぱりね」と納得する心のはたらきを、この作家は異様にうまく書く。
自分の10年前をいろいろ思い出した。ただ思い出すだけじゃない。この作家の文章を追っていると、せつない感情や淋しい気持ちに付帯する「関係性」や「社会の中での自分の居場所のありかた」の記憶がワンセットで掘り起こされる。
くるしい。くるしいのだけど、少しつよい。いろいろなことを、なんとか乗りきる。肩で風を切ることはなくて、基本的になで肩。この感じは中間すぎてつかまえにくい。グレーという色の「白50%黒50%です!」のど真ん中の末尾の「!」の真意をはっきり示すなんて、できるんだろうか。でもこの作家は書く。ここに焦点を定めてしっかり書く。白や黒の比率の多いところを書く作家はいっぱいいるけれど、ど真ん中をこんなに上手に見せられたのは初めて。夢中で読んだ。
ところで韓国語には「愛想笑い」に相当する表現って、あるのだろうか。もしかしたらそれがないために、こんなに奥行きのある小説が生れるのではないか。 「わらわい」という物語を読むと、そんな疑問が浮かぶ。その疑問のきっかけは「上流には猛禽類」のなかにもあった。
そう言いながら彼女は笑っていた。お父さんも笑った。それは自分たちがよい人間であり、誰にも悪意を持っていないことを示そうとする笑いだったと思う。
社会の中で居場所を確保するためのエクスキューズ所作に、いちいち意思はない。この作家はその意思のなさが生み出す残酷な結果をあまりにもリアルな設定で「それ、あるね」という展開で織り込んでくる。おそろしい。
似たタイトルの別の短編「笑う男」のこの部分で、もうやめて…。という気分になった。
彼はただ、やってきた通りのことをしたんだろう。つまりパターンみたいなものだな。決定的なときに一歩あとずさりする人間は、次の瞬間にもあとずさりする……かばんをひっつかむ人間はかばんをつかむ。それと同じようなことじゃなかったのか。決定的に、彼、という人間になること。綯(な)ってきたように縄を綯うこと。いつもやっていた通りのリズムで綯うこと。誰もが自分の分の生地を持っており、その上に織り出される模様は、たいがいそんなふうにできているんじゃないのか。そうじゃないのだろうか。知らず知らずのうちに僕も織り上げてきたパターンの連続、連続、連続。
これは適応とか順応といわれる人間の心のはたらきなのだけど、その適応や順応が生み出す悪を、人が裁くことなんてできるんだろうか。
わたしは自分自身が過適応や過順応をしやすい性格なので(流されにくいのだけど過適応する)、この作家の小説がとても芯に響きました。「自分」なんてふつうに生活してたら存在しないものなのでは? と思っている人間が「ありのまま」なんていわれると、困ってしまう。なにそれ新しいテンプレート?! わたし聞いてないんだけど…となる。
そういうわたしのような人に、ぜひ読んでみてほしいです。今までに感じたことのないタイプのやさしさを感じる。しかも、短編がすべて高品質で粒ぞろい。酸味も絶妙。箱入りの「とちおとめ」みたいな本でした。
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