少し前に読んだ『台湾はおばちゃんで回ってる?! 』という本に、とても印象的な流れでこの本の紹介がありました。
大人になっても、まるで小学校のいじめの構造じゃないかと感じる状況に置かれることってあるものです。先にリンクを貼った本の著者は、海外で働く日本人同士という関係性のなかでそれを経験され、今日紹介する本の内容に触れられていました。
いじめられるときに心のなかで起こる情報処理について、わたしはこれまでに読んだ中で二つ印象的な小説があって、それは『デミアン』(ヘルマン・ヘッセ著)と『ヘブン』(川上未映子 著)です。
それに加えてこの『いじめのある世界に生きる君たちへ』を読むと、いじめを学習していく人間のそれを暴走させないためには「欲」や「愛」について学ぶ必要があり、これを教育のなかでやっていくのは土台無理な話じゃないかという、かねてからの思いが強くなりました。
わたしは家庭や学校とは切り分けた場所でこのようなこと(「欲」や「愛」について学ぶこと)を家族や他人と一緒に学べる場所が必要だと思っていて、それを他の国では宗教が担っている、そんなふうに日本社会を見るようになっています。
この世に、いじめ方を教える塾があるわけではありません。しかし、いじめの手口を観察すると、家でのいじめ、たとえば夫婦、嫁姑、年上のきょうだいなどのいじめ・いじめあいから学んだものがじつに多いのです。方法だけでなく、脅す表情や殺し文句もです。
一部の先生の態度から学んでいることも事実です。こう考えると、一部の家庭と学校は、懇切丁寧にいじめを教える学校といえそうです。
(いじめかどうかの見分け方 より)
わたしが子ども頃『おしん』という朝ドラが流行っていました。それは学校でもテレビを見せられるほどの大流行っぷりだったのですが、わたしはあのなかで展開される地域や家庭内のいじめの描写がとてもつらく、大人たちが『おしん』を熱心に見ていると、その後の日常で「だからお前も耐えろ」と言われている気がしたものです。
以下の分解も、完全に大人向けだなと思います。
人間には「他人を支配したい」という権力欲があります。
<中略>
権力欲には他の欲望と違って、真の満足、真の快さがありません。
睡眠欲も食欲も情欲も、満足する地点があり、満足すれば止みます。ただし例外があります。睡眠欲はともかく、食欲や情欲が際限なく追求される場合です。その多くは、欲望が権力の手段となりさがった時におきます。たとえば、情欲が相手を支配する手段となる場合です。その時、情欲自体の純粋な快楽は失われ、相手の気持ちにかまわず相手に自分の欲望を受け入れさせることが目的になります。
(権力欲 より)
自分の欲望の構成比は大人だって切り分けるのがむずかしい。
ヨガを継続的にやっていると、自分の肉体を支配したがる心がどういうものか観察を強いられる瞬間があって、それが日常の心のはたらきにも多々潜んでいることに気づきます。
長く続けていくほど欲望が単純ではないことを思い知らされ、そこからがやっと人間としてのステージに入るのかなというくらい、欲望を理解するのは大変なことです。
同じ章に、こんなことが書かれていました。
権力欲のコントロールは遊びと似ています。小さい子どもはむりやりでも勝てばよろこびますね。でも小学生になるとそれでは満足できず、ルールに従うことに満足を感じるようになると、わたくしの尊敬するアメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンは指摘しています。多くのひとは4年生の時にそうなると述べています。
わたしはここをもっと掘り下げて知りたいと思いました。
大人が行う「無理矢理にでも勝ちたい」はビジネスの場面で見れば多々あるものだし、アテンションを無理矢理にでも獲得したい人は少なくないから。
信頼関係を構築するプロセスを満たしていないのに親密さを求めるような、情欲よりも渇愛に近いケースまで含めたら、権力欲の把握ミス・運転ミスで起こるコミュニケーションの交通事故は大人社会でもあちこちで起きています。
先日も友人からそんな話を聞いたばかりだし、その前の週も前の月も、友人たちからの相談はだいたいそういう話です。もちろんわたしも経験しています。
著者は子どもの頃の経験を初老になるまでひきずっていたため、この本(厳密には、この本の元になるテキスト)を書かれたそうです。
春はリセットの季節だけど、リセットされていないことにあらためて絶望している子どももいる。しんどいだろうな、と思います。