昨年出版された新しい訳の「デーミアン」。初回は岩波文庫(1959年出版・実吉捷郎訳)、2回目は新潮文庫(1951年出版・高橋健二訳)で読み、これで三冊目です。この本のあとがきに、いまの若い世代は日本人の伝統的な情緒性よりも「進撃の巨人」や「魔法少女まどか☆マギカ」のような世界観を共有する社会で生きているからヘルマン・ヘッセの変化後(純情風でなくなった)といわれるこの作品の見えかたも違うだろうといったことが書かれていました。
この最新版で読んでいると、伝統的な情緒性を受け継いだ体裁でやっていくことのつらさへの反動のようにあらわされる "極端な演技" のようなセリフ、モノローグの口調がすごくリアルに感じられて、ほかの訳よりもイライラできます。ノイローゼではなく中二病。そう、中二病のつぶやきにきこえる。今っぽい。
自分の身がどうなろうと、もはやどうでもよかった。酒場に入り浸り、虚勢を張るというあさましいやり方で、ぼくは世界と戦っていたのだ。ぼくなりの抗議の仕方だった。そして自分をだめにしていた。そのうち、自分でもわかってきた。この世界はぼくのような者を必要としない。この世界がもっとましな居場所やもっとすばらしい役目を用意してくれなければ、ぼくのような者たちは壊れるだけなんだ。それで世の中が損害を被るなら、それもいい。
(第4章 ベアトリーチェ より)
ほめてくれる前提ならステージに立ってもいいですけど、そうでなければ壊れます。と言っているかのようなメンタル。1950年代の「デミアン」では "不良" のイメージで読んでいたものが、この本ではクレーマーの頭の中をのぞいているかのように感じられる。
次の章で「この人にほめられたい」という対象を見つけたときの異様にぶりっこなセリフも、いいんですよね…。この極端な語調がいい。
「いいえ。音楽は聴く方専門です。ただしあなたが演奏するような、なににも束縛されない音楽がいいです。天国と地獄を揺さぶるような感覚が味わえるとでも言いますか。音楽がとても好きなのは、ほかのものと違ってあまり道徳的でないからだと思います。ぼくは道徳的ではないものを探し求めているんです。道徳にずっと苦しめられてきまして。うまく言えません。──神であるのと同時に悪魔である神がいるはずだということをご存じですか? そういう神が存在した、と聞いたことがあるんです」
(第5章 鳥は卵から出ようともがく より)
注目されたいのに "ほのめかし" までしかしない。あなたこの会話、脳内でずっとシミュレーションしてきたでしょ、とつっこみたくなる。
そしてなんとか注目を獲得した相手の心に爪あとを残したくなって(と、わたしは読み取りました)反抗的になっていく心理描写も、わりとストレートに書かれています。
ピストーリウスは己を探求する勇気をぼくに与えてくれた。それなのに、すこしずつあの人への反抗心が芽生えていった。あの人の教訓的な物言いに辟易し、ぼくのことを断片的にしか理解していないと感じるようになった。
(第6章 ヤコブの戦い より)
全部理解してほしい、注目に飢えていた。そんな "ぼく" の思いがストレートに伝わってきます。ここをすっきりとした文章で訳されていることで、いまは当時の痛さを認められるようになっていることも伝わってくる。書いているヘルマン・ヘッセは40歳。こういうちょっとした心の振り返りの短い文章がいいんですよね…。この小説は。
後半は「目覚めた」「悟った」かのような描写が気分のアップダウンと平行して書かれますが、ひらがなの多い日本語で読むほうが、その間隔が日常の延長にある景色に見えます。
ぼくは自分の心を覗き込むことに慣れていた。外の世界を受け止める感性をなくし、子ども時代を喪失すると共に輝く色彩の世界を見失い、魂の自由と成熟と引き換えに、このすてきな輝きを放棄する、そういうことと折り合いをつけることに慣れていたんだ。だが、それらはすべて覆い隠されていただけだった。自由になって、子どものときの幸福を放棄しても、世界の輝きを見ることはできるし、幼いときに見たのと変わらぬ感動を味わうことが可能なんだ。ぼくは歓喜に打ち震えた。
(第7章 エヴァ夫人 より)
このように過剰にスピリチュアルでありながら、全般マイルドなトーンで読める。読めるのだけど。
こういう助走があった上で、最後の章の以下の部分は、異様にずっしりきます。
銃撃戦には息の詰まる思いをしたけれど、ぼくは初めからすべてに幻滅していた。以前は、理想のために死ねる人間がどうしてこうも少ないのかと気になったけれど、いまは多くの、いや、すべての人間が理想のために死ねるのを見た。ただし、それは個人の理想ではない。自由な、自分の意志で選んだ理想であってはならず、だれでも共有できる、人から受け継いだ理想でなければならなかった。
そのうち、ぼくは人間を過小評価していたことを知った。兵役につき一様に危険にさらされたことで、みんな画一的になってはいたが、それでも運命の意志に果敢に近づこうとする生者や死者をたくさん目にした。たくさんの、本当にたくさんの人が揺るぎないまなざしをしていた。遠くをみつめるような、すこし取り憑かれたまなざし。それはなにも攻撃のときだけじゃない。いつもそうだ。目標など知らないままに、巨大な運命に身を捧げようとする、そういうまなざしだった。なにを信じ考えていたかはともかく──みんな、覚悟ができていたし、役に立った。この人たちを元に未来はできあがるだろう。世界がますます戦争と英雄行為、そして名誉をはじめとする古い理想にしがみつくかのように見えれば見えるほど、また見せかけだけの人間性のあらゆる声が遠のき、実体をなくせばなくすほど、すべてが表面的なものに堕した。戦争の政治的目標が表面的であるのと同じように。深いところで、なにかが胎動していた。新しい人間性のようなものだ。というのも、憎しみと怒りを感じ、殺人と破壊をおこなうのは戦う相手がいるからではないと感覚的に見抜いた人とたくさん出会ったからだ。
(第8章 終わりの始まり より)
わたしはこの小説の「ぼくは人間を過小評価していたことを知った」以後の描写に毎回すごいなこの展開…と思うのですが、他の訳では「成長」「生じる」と訳されているところがこの本では「胎動」になっていて、足元から地面が崩れていきそうな雰囲気がある。この不気味さがすごくいい。
訳の日本語にひらがなが多いせいか、初期の主人公には「銀の匙」(中勘助)の少年の心、中期の主人公には夏目漱石「それから」の代助のように自分を正当化したい気持ちで火だるまになる神経症っぷりを思い出しました。自分の心の中で起こるいやーな感じは自分の妄想も手伝ってできあがっているとわかっているのに、どうにもできない。どうにかしてくれそうな人の気を引いてつかまえて反抗する。壁打ちの相手にする。そうやって自我の殻を破っていく。
こういうプロセスは大人になっても起こるときは起こるし、おじいさんおばあさんになってもやっている人はいて、青春期に限ったことじゃない。
すべての大人の中二病に捧ぐ。そして中年期の妄想の病を防ぐ。デーミアンは今のわたしにとって、忘れていたけど忘れちゃいけない予防接種のように機能する物語であることを再確認しました。
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