うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

仮面の告白 三島由紀夫 著

自分の毒が自分に回ってその毒に酔うとか、どんだけ自我をこじらせてんだよ! と自分で自分にツッコミを入れる心って、こんなふうに書けるんだ…。という驚きの小説。

わたしがインドで猛暑のなか恋愛詐欺に遭いながら考えていたことは、まさにこの小説の主人公が園子に対して抱く感覚とよく似ていた。身体が備えている基本アプリを立ち上げてそれらしく振る舞うこともできるのだけど、実況がやめられない。ずっと「ここでこういう返答するとか!」と、仮面の中の人がツッコミを入れながら対応しているのに、ひとりになったときに基本アプリの存在を感じる。こういうの、ずっと使ってなかったけどサクッと起動できちゃうんだな…ということにびびる。うん、びびる。こわいのだ。

わたしがいつのまにか立ち上がった基本アプリで「お姫さま待遇」を楽しめてしまうのと同じように、この主人公は少女の前で爽やか青年アプリを起動できてしまうことにおののく。そして男性に対しても別のアプリを起動する。

 

自分で自分に酔ったり美化していることを実況解説する、というのはとても多くの文字数を必要としそうなものなのに、なんと数行で書いてしまう。すごい。

私が欲望に負ける瞬間はいつもこうだった。私がそこへ行き、そこに立つだろうことが、私には避けがたい行動というよりも予定の行動のように思われるのだった。後年、だから私は自分のことを、「意志的な人間」だと見まちがえたりした。(第二章)

 十五六の少年が、こんな年に不釣合な意識の操作を行うとき、陥りやすいあやまりは、自分にだけは他の少年たちよりもはるかに確乎としたものが出来上りつつあるために意識の操作が可能なのだと考えることである。そうではない。私の不安が、私の不確定が、誰よりも早く意識の規制を要求したにすぎなかった。私の意識は錯乱の道具にすぎず、私の操作は不確定な・当てずっぽうな目分量にすぎなかった。(第三章)

 ロマネスクな性格というものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこっていて、それが往々夢想という一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考えているように精神の作用であるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。(第三章)

好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもっとも不徳な欲望かもしれない。(第四章)

感情は固定した秩序を好まない。それは灝気(エーテル)の中の微粒子のように、自在にとびめぐり、浮動し、おののいていることのほうを好むのである。(第四章)

どこから湧きあがってくるのかわからないエネルギーや、操作できたりできなかったりする感情について、間違いを丁寧に避けながら長くならなずに書かれている、こういうハッとする数行がたくさんあります。

 

景色の描写への身体感覚の重ねかたも、すごい…。

 夏の午さがりの太陽が海のおもてに間断なく平手搏ちを与えていた。湾全体が一つの巨大な眩暈(めまい)であった。沖にはあの夏の雲が、雄偉な・悲しめる・預言者めいた姿を、半ば海に浸して黙々と佇んでいた。雲の筋肉は雪花石膏(アラバスター)のように蒼白であった。

(第二章)

湾全体がめまいのようで、水面にはキラキラの間断ない平手打ち、空にはもりもりとした白い筋肉。ふつうに見たらサザンが脳内で流れそうな景色なのに。

 

少年の頃を振りかえる心理描写には、読みながら「もしもヘルマン・ヘッセガンジーのような自戒癖があったら…」という文章に見えた。半分自覚しながらやっつけの判断をして、あとで自ら追い詰める。自分のことを客観的にも好きになるって、難しい。

仮面の告白 (新潮文庫)

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