うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分で自分を叱って見放して無視までしたら…、わたしはどこへいけばいいの

先月のブログを読んでくれた友人が、何年も前に考えたことを言語化することについて思うところがあったようで、話しかけてくれました。そこから少し話をしました。
わたしはずっと覚えていることに対してネガティブなイメージがありません。「覚えていること」を「根に持っている」とみなす悪魔認定話法は大人の都合。わたしは「覚えている」という機能に光を見ます。


保持しているものは、時間を経ても残ったもの。わざわざ持ち続けようとしていたわけではないのに残るものもある。そのあとたくさんいいことも悪いこともあって、記憶が書き変わるなかで残っていくものがある。そのはたらきを認識してうまく使えば、得意なことや大切にできることを自分の中から見つけ出せるのではないか。そんなふうに考えます。


後を引かない、いさぎよい、さっぱりとした、竹を割ったような… これらは態度。なんならプレゼンテーション。脳の「忘れる」という機能とイコールではありません。だから「あぁいまわたし、なんかいやな奴になってる…」と小さく頭の中で思うことがたくさんあっても、そんなの平常運用。
「その時に見ようとしないこと=忘れる」にはならないし、実際脳はそんなはたらきかたをしていないからフラッシュバックが起こる。流した記憶は消える場合もあれば、残る場合もある。残るといってもそのまま完全には残らなくて、自己の法則と親和性の高いものが生き残る。

 

 ここにあるのは確実に、まぎれもなく自分の感情なのに、消すしかないのか

 

わたしはこのシンプルな疑問を大切にしています。でないと、他人の都合で残したり消したりすることに始終する人生になってしまうから。
── というか、消せといっても無理なのです。消さないと相手にしないといわれたら、その相手と離れるしかないのです。

 


先日話しかけてくれた友人に、わたしはこんな答えかたをしていました。

 

 悪感情をないものにしてしまうのって、
 自分で自分を叱って見放して無視してるみたいだなと、
 いつからか考えるようになった。


年々、自分で自分の機嫌を取り続けることが社会生活の秘訣であると気づいていくなかで、「叱って見放して無視」はないだろうと、そんなふうに考えるようになりました。無視を意図的にするのは、自分自身へのいじめ。無視は自然にできているときに「忘れてた」に変わる。そういう思考の経験をたくさんしました。
感情にはそのときの対象との関係性がセットになっているけれど、不思議と関係性だけが薄れた記憶になったり、対象だけが薄れた記憶になったりします。わたしは、生きていくうえで大切なのは後者とにらんでいます。
相手が人でなくても、事象に対して自分がどんな関係性を持つと満たされると感じ、傷つくのか。わたしは言語化することで「うれしみの法則」みたいなものを見つけることがあります。


 ここにあるのは確実に、まぎれもなく自分の感情だなぁ。
 いま処理はできないけれど。
 ── あとでチンして食べよっと。

 

と、脳内で日々こんなことをしている。一度自分の家の台所を通って料理されたものを放置するのって、しんどくないですか。感情って、いちど料理されたものみたいなところがありませんか。
それ以上のものを食べて満たされることで「もういいや」ってなることもあるし、それはそれとして「あれ、食べなかったな…」と、食い意地とは別の感情として覚えていることもある。あまりそこに法則性が見出せないので、わたしはそこには善悪をつけないことにしています。