四篇収められている物語のうち、最後の「モルモット」で主人公が仕事をやめるに至った価値観の葛藤の描かれかたが好きです。信じていたものをいまは疑っているという状況を自分で認めて舵を切るのは、とても時間のかかることです。それが武勇伝にならないように地味にすすめていくことは客観的には不気味なので「あの人、ああなっちゃったね」と言われるような展開になりやすい。わたしもなるべく武勇伝めいた展開にならないように生活の舵取りをし、かつての仕事仲間には暮らしぶりを語りません。「あちら側の人」と「こちら側の人」に分けて飲み屋で消費されるだけであることを知っているから。
「あちら側の人」と「こちら側の人」に分けて「気づいていない人」を「気づいた側の設定の人」が話すという構図がわたしはどうにも苦手です。田口ランディさんは、それをていねいに避けている。そこに安心感がある。
そろそろ白状すると(ここでは何度もとっくに白状していますが)、わたしは話法において「気づいた側の設定」に自身を迷いなく置ける感覚とその言いっぷりに露骨にヒきます。マスオさんがえええーーーと後ずさりする挙動と同じくらい露骨にヒきます。
普段通りの生活をしている人に突如罪悪感の帽子をかぶせるような話し方をする人の文法はいつも頭の中にメモをして、その構造を分解します。焦りが漏れているよ。もう少しオブラートに包んでくれよ。露出しすぎだよ、一枚なにか羽織ろうよ。と。
これは自信のない人がよくやるわかったふりや理論武装・思想武装とは違って、感情武装だから困るのです。こちらに感情がない前提でないと試合の成立しないリングを設営されて、いきなり立てと言われるのです。そんな乱暴なマッチメイクがあるでしょうか。
この小説は、そういう怖さをいろんな角度で切り取って読ませてくれる、福島と原発を題材にした四篇。攻めてる! こういう小説は賛否両論なのだろうけれど、実はおおむね賛なんじゃないだろうか。少なくともわたしの身近で計測したら、おおむね賛なのではないか。そんな気がする。
あの頃石原慎太郎都知事(当時)の「天罰」という言葉選びにヒステリックに反応した人たちは、いまはどんな感情のウェアを纏っているのだろう。そんな思いがよぎります。
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