うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インド 心と文化のオクターブ 島岩(しま いわお)著


いままでたくさんのインド旅行記を読んできたけれど、これが圧倒的ナンバー・ワンのおもしろさ。という内容のインド旅行記&留学記でした。
著者は「シャンカラ(Century Books ― 人と思想) 」の島岩さん。大学の先生なのに、ぜんぜんそんな感じがしないカジュアルな文章。インドで目にする光景から感じることも共感するものばかりで、留学生活で痔になったり、身体的に起こる定番のあれこれをすべてあますことなく書いてくださっています。(夜の街の性のビジネス事情までも…)

インドへ行って毎回驚くのはインド人男性のコミュニケーション能力の高さですが、でもこの感じがなかなか言語化できない。この本ではそこのところが完全分解されていて、すごくわかりやすかったです。自分の心のなかで起こっていたことが、わかった!
わたしも直近のインド旅行の終盤では「僕はアルファベットは読めないから、読み上げて。連れて行ってあげるから」というおじいさんの前でアルファベットを巻き舌で読み上げるということをやったのだけど、この本を読んでそのコミュニケーションの質の違いがよくわかりました。あの人たちは、表音文字文化。
それに対して日本人も中国人も、形の構成が意味を持つ漢字を使う表意文字文化。以前香港へ行ったときにタクシーの運転手さんの手に字を書いて駅まで連れて行ってもらったことがあったのだけど、それができるのが漢字文化で、インドの場合は音で伝えていくコミュニケーションを文字に落とし込んでいます。そういえばデーヴァナガーリーの音の連結はまるで譜面を読むようで、書き写しているだけなのに思わず舌や口が動き出します。
タイトルの「心と文化のオクターブ」にうなります。まさにそれ! と膝を打つ。日本人の心と文化が1.5オクターブだとしたら、インド人はマライア・キャリーの音域で生きてる。貧富の差、価格差、ダメモトで言ってみることなどなど、響きの幅が違う。
この先生もインドのコミュニケーションのほうが肌に合うようで、でもそれに慣れてしまうと日本で苦労をするということを書かれていました。


冒頭にも書きましたが、エッセイストでもないのになんなの?! このおもしろ文体! という内容です。このように。

 南京虫退治のため、半日近くもウンチング・スタイルでベッドの横にしゃがんでいたせいだろうか、途中からなんだかお尻の穴が痛くなってきていた。夜、気になって調べてみると、やっぱり痔だった。
インドの食事は香辛料たっぷりで辛いので、慣れない人は痔になりやすい上に、私は毎日インド食だったので、いかにトイレが手動式ウォシュレット(つまり用便のあと紙ではなく手を使って水で洗う)で痔にいいとはいっても、なるときはなるのだ。今度はいつもの切れ痔とは違う。もっとなかのほうが痛いのだ。人差し指をつっこんでみる。すると指の第二関節あたりまで入れてみてようやく患部に触れるというところにいぼ痔が見つかった。
(P131 痔とアーユルヴェーダ より)

このあともおもしろいです…。



語り口はこのように軽いのに、この一冊を通じて得られる内容はとても濃い。

 留学後半年ほどたったころだったろうか。大学に行くとみんながなんとなくざわざわしていて、部屋に行っても、いつも机に向かっているラフカル先生がいないのだ。約束の授業の時間なのにどうしたんだろうと思ってみんなに聞いてみると、なんと逮捕されたというではないか。「ええー、なんで、なんで?」と聞いてみると、次のような事情だった。
 当時、インディラ・ガンディー首相の選挙違反の裁判が最高裁で行なわれていて、その判決がインディラ・ガンディーに不利な形で出た。そこでインディラは即座に全国土に非常事態宣言を発令し、政敵をほとんどすべて逮捕してしまうという手に出た。ラフルカル先生は、現在のインド人民党(BJP)を支援するヒンドゥー教下部組織の国民義勇団(RSS)のプーナ地区組織の代表者の一人ということで、逮捕されたとのことであった。
「ええー? あのいつもニコニコ笑っている、人のいいウェーダーンタおじさんが、そんな大物だったのー?」っていうのが、外国人である私の最初の感想だったが、インド人の学生たちの受けとめ方は当然ながらもっと深刻なものだった。「物言えば唇寒し」という雰囲気がただよっていた。
 ラフルカル先生は結局一年間刑務所暮らしをすることになるのだが、その刑務所はイェルワダ刑務所といってプーナ市の郊外に位置しており、インド独立運動の時には独立運動の闘士たちが牢につながれていたところだそうで、変な言い方だが由緒ある刑務所とのことだった。
(144ページ ウェーダーンタおじさんラフルカル先生 より)

「ええー?」の軽さがいちいちおもしろいのだけど、そのあと刑務所まで博士論文の指導を受けに行ってたりしていて、とにかく明るい。こういう「ある日突然、一斉にトップダウンでやる」というやり方も、インドで驚くことのひとつです。


前半にある、ジャイナ教のジャンブーヴィジャヤ師とのエピソードを読んでいたら、説明がわかりやすくて「おお」となる箇所が二ヶ所ありました。

肉・魚・卵はもちろんのこと、じゃがいもなど土の下からとれる野菜も食べない。じゃがいもなどを食べないのは、次の二つの理由によるのだそうだ。(1)じゃがいもなどは、切って土に埋めておくとまた生えてくる。これはジャイナ教の世界観のなかでは、霊魂が二つ以上ある植物ということになる。一方、地面の上に生えている通常の植物は、切ったらもう生えてくることはない。これは霊魂が一つしかない植物を食べるほうが、まだ罪が少ない。(2)土のなかから取れる植物を掘り出すさい、誤って土の中に住む虫を殺すという罪を犯す可能性がある。
(62ページ ジャイナ教出家僧との生活 より)

1の理由は、知らなかったです。
そして同じくジャンブーヴィジャヤ師が筆者から指定カースト(不可触民)について質問をされて、以下のように答えている部分も印象に残りました。

「あれは政治的な仏教の徒だ(不可触民の多くは、インド独立後、平等を求めてヒンドゥー教から仏教に大量改宗した)。指定カーストということで、議会のなかでは自分たちのための保留議席を確保し、また教育面では優先的に奨学金をもらっている。これは逆差別を生み出すことになっている。職業に応じてカーストが異なっているということは、私は原則的にはいいことだと思う。」
(66ページ ジャンブーヴィジャヤ師との対話 より)

この内容・インドの人たちの感覚は「世界を動かす聖者たち グローバル時代のカリスマ」にも解説があり、読んで知ってはいたものの、この旅行記の年代から逆算するとこの対話は1975年頃。この時点ですでに、こんな感じだったのかと思いながら読みました。佐々井秀嶺さんのことを「インド仏教を日本人が率いている」と捉えるとき、その文字列どおりのイメージとは、インド人の感覚は違うのでしょう。

前半は誰にも楽しめる旅行記で、だんだんインドに詳しくなれる。なのにちっとも大げさじゃない。「これは、どういうことだろう」という事態にその都度まっすぐ向き合っていて、ご本人がわりともともとインド人的な素養をお持ち。
日本で取り上げられるインドのイメージの時代変遷を語りながら、"神秘のほうに寄せすぎ" とつっこむスタンスがすてきです。いま読んでも、感覚がちっとも古くありません。