うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドの大地で ― 世俗国家の人間模様 五島昭 著

インドの大地で―世俗国家の人間模様
昭和61年の本です。長崎か福岡の古本屋で買いました。社会派の旅行記としてかなり良書といえる内容。山際素男さんの「不可触民―もうひとつのインド」を旅行記で読むようなリアル感。
インドについて、うちこもこの場で3度の旅行記を書いてきましたが、インドで感じることはそのフォーカスポイントをどこに置くかによっていくつかの書き方があると思っています。インドへ行けば当然手足を切って物乞いをしている人にも出会ったりするわけですが、写真を撮ったりはしません。なので、そういう側面については本の紹介に便乗したりして書いている。
インドへ行って「ああひどかった。日本人でよかった」と思うか「生々しいけど、本当は差別感情があるのに平等のテイでやることが不自然な気になる」と思うか。これは、その人の現実への向き合い方をあぶり出す。「目で見た現実」を日本に持ち帰るか、置いてくるかの違いとでも言おうか。
置いてくる人は、それでもいい経験だと話すとき、「でもなんか神秘的な国でさ」ということを言ったりする。うちこには、どうしたら「生々しい」が「神秘的」になるのかがよくわからない。最近じゃあ「スピリチュアル」なんてことになったりしている。生々しさから生まれ、依存し継がれる儀式を見て、なぜそうなる。尊敬すべきところは神秘性なんかじゃなくて、「現実に向き合う智恵の継承」であって、見た目の話じゃないんだ。


この本には、そんな点についてもバチッと書かれていて、グッときた。その部分を先に紹介します。

<94ページ インドは「神秘の国」か より>
 三島由紀夫は一九六七年九月、インド政府の招待を受けて約一ヶ月インドを旅行した際、バナーラスに立ち寄った。三島がインド、とりわけバナーラスで受けた衝撃の強さは、『暁の寺』全篇に影を落としている。さすがに三島の文体は「神聖と汚穢の極まる聖地」を活写して壮麗をきわめるが、それでもインドの懐の深さに引きずられて、インド神秘論への傾斜を免れていない。
 日本で「インド」をコマーシャル・ベースに乗せるには、"神秘" を売り物にするのが一番手っとり早いが、いつまでもインドを神秘視するのは芸がない。マニカルカ・ガートの露天火葬場の光景はたしかに強烈だが、一歩離れて冷静に見るなら、遺体を焼くという当然の行為が行われているにすぎない。そこには "神秘" も "不思議" もない。
 十九世紀ドイツの哲人の言葉を借りるなら、「存在するものはすべて合理」、非合理は存在しない、という当然の視点が、インドを見る場合には不可欠である。それが、インドに接する異邦人が持つべき、最低限のモラルといえるかもしれない。

インドには、「ここで気持ちを処理するのね」という光景が多い。そして、圧倒的な明るさとそれが合わさったとき、「すげーな」と思う。祈るという行為って、こういうことかと思う。「どうにもなんないこと慣れ」って感じなんだよなぁ。

<162ページ 八つの言葉をあやつって より
現象と現象の間に横たわる断絶状況は、巨大な貧富の格差がもたらしたものには違いないが、それだけでは説明し切れない不可解さが残る。現象Aと現象Bがインドにともに存在しうることを、異邦人に納得させるだけの論理の糸が、インド社会には欠落している。
 このことがインドという世界の理解を極度に困難にし、インド神秘論、ひいてはインド不可知論を生む重要な一因となっているように思われてならない。

そう。「どうにもなんないこと慣れ」についての解答がない。うちこは体内のインド成分の比重が増えちゃったのか「だってどうにもなんなすぎるんだもの」と言われたら「だよネ。デカすぎるし古すぎるもんね」って納得しちゃうんだけど。リグ・ヴェーダ読んだら「もう無理じゃん」くらいの気になったし、そのうえで、昔のインド人すごすぎ。と思う。


この本は、インドの生々しいカーストと性差の現実を、すごくよく説明されています。
引用紹介を続けます。

<10ページ 混沌のカルカッタ より>
 その夜、市内のレストランで食事を終えてホテルに帰る途中、チャンドラ・ボース通りの路上で寝ている人々の間を、サリー姿の若い女性がゆっくり往き来しているのを見かけた。路上生活者を相手に、春をひさぐ娼婦である。出稼ぎ労働者の多くは、郷里に妻子を置いたまま、"単身赴任" を余儀なくされている。男が女をはるかに上回る人口構成が、カルカッタに売春をはびこらせる一因となったことは否定できない。「スキン・シティ」(肌の都市)の異名を持つカルカッタの夜は、混沌としている。

カルカッタ=インドの新宿歌舞伎町」みたいな話は、ドミニク・ラピエール氏の「歓喜の街カルカッタ」や野口法蔵氏の「チベット仏教の真実」にがっつり書かれています。


<24ページ 社会の "けがれ" を洗う より>
 私が雇っていたサーバントのうち、コック以外は通いだった。「ドビー」のカースト名を持つ洗濯夫は、五十過ぎのやせこけた男で、週に三、四回、私の家の裏庭で汚れ物を洗ったが、その洗い方たるや、大きな石に衣服をバシッ、バシッと叩きつける昔ながらの方法である。下着のゴムひもがすぐゆるむので、「洗い方を変えろ」と文句をいっても、「二千年これを通してきたので、ごかんべんを」と、とり合わない。彼の月給は百ルピー(約二千円)。三軒ほどかけ持ちしているので、食べるには困らない。

スリランカでも庶民の洗濯風景はいまだにこんな感じでした。それよりも、収入を分散バランスさせている生き方が沁みる。最近これがテーマなので。

<26ページ 大地を掃く より>
「スイーパー」の名で呼ばれるのは床ふきである。私が雇っていた中年男のスイーパーは、朝夕私のベッドルームや応接間の石の床にしゃがみ込んで、雑巾でていねいにみがき上げ、トイレの掃除をする。スイーパーもドビー同様、インド社会の底辺を生きるアウト・カーストである。マハトマ・ガンディーが「神の子」(ハリジャン)と呼んで、その解放と救済を訴えた人々である。
 インド社会におけるスイーパーの地位はとりわけ低く、ザイル・シン大統領が与党、国民会議派の大統領候補に指名されたとき、「インディラ・ガンディー首相のためなら、私は喜んでスイーパーになるだろう」と発言、物議をかもしたことがある。
 何千年にも及ぶ抑圧された歴史がそうさせるのか、彼は、私がカースト的秩序の枠外に生まれた外国人であるにもかかわらず、私の前に出るとおどおどし、風のように素早く逃げ去る。読み書きは、自分の名前が書けるだけ。私から月給四十ルピー(約二千八百円)を受け取る際、領収書に書くナーガリー文字のへたなサインが、彼の境遇を象徴しているように思えた。
 彼の家を訪れたときのこと。彼ら夫婦に子どもの数を聞くと、驚いたことに彼は「八人」、彼の妻は「七人」と、答えが食い違った。五歳の男の子が隣の家に出入りしているうちに、自分の子どもかどうか、わからなくなってしまったらしい。夫婦はその男の子の "帰属" をめぐって、いつまでもいい争っていた。

隣の家の子がうちの子的な状態は、インドでもスリランカでも目にしたのだけど、実際目にすると「いいなぁ」と思う。子ども自身が周りの人々を信頼しきっていて、同じ笑顔をこちらに向けてくる。「この、のっぺりした顔のお姉ちゃんは何者か? いい人か?」という気持ちの取引をしない笑顔。子どもを取り巻く環境って、日本は気持ち悪いことが多いから。子どもの「営業力」もなんか怖いし(笑)。
たぶんインドって親が子どもに「(よその人の前で)いい子にしなさい」とは言わないと思うんだ。とにかく、そんな気がする。

<30ページ 農民のヘソの緒 より>
 この土地のネズミは地面に穴を掘って稲の穂を貯える習性があり、腹をすかせた村の子どもたちは、しばしばネズミの掘った穴の中に手を突っ込んで稲の穂を盗み出して、腹の足しにする。カルナマルさんの息子も、こうして稲の穂をとろうとしたところ、穴にひそんでいた猛毒を持つコブラに手をかまれてしまった。カルナマルさんも近くの土地で働いているが、日収は約二十タカ(約百六十円)。これで一家七人を養っている。「ビタミン不足のせいか、視力が弱くなって」と、カルナマルさんは目をしょぼつかせた。

自分の貧しいことを子どもが嘆くという光景も、インドの家族の光景を見ると想像ができない。「頭おかしいぞ日本の子ども」と思ったりする。

<62ページ 井戸掘り論争 より>
"五人の会議" を意味するパンチャーヤトは、村の土木工事や労働力の配分などの経済問題から、村の秩序を維持するための警察や裁判制度に至るまで、身近な村の問題を処理する機関。「世界最大の民主主義」を、その基底において支える最小の自治組織である。
 カムロージ村のパンチャーヤト議員は七人。女性一人とハリジャン(アウト・カースト)の代表一人が含まれ、任期は五年。ガンディー政権の与党、国民会議派に近いスリラムさんは二期目、父親の代から数えると連続四期、シン家の人が議員を務めたことになる。
 この日の議題は「井戸」。カムロージ村にある六つの井戸は、いずれも十七世紀初め、ムガール帝国の時代に掘られたという超時代物である。このため水質が悪く、近年、肝臓をやられる人が続出、新しい井戸を掘る必要に迫られていた。
 ところが、従来カースト別に使われていた井戸を、この際、共同使用にすべきだ、との声が、主にハリジャンの間から噴出、これに反対する一部「ジャート」カーストとの間で対立が激化した。パンチャーヤトでの審議も難航、カースト別使用に反対するスリラムさんは、ハリジャン代表議員と組んで共同使用を強く主張した。
 私の滞在中、結論は出なかったが、パンジャブ州の農科大学で勉強した村きってのインテリ、スリラムさんの "進歩性" を示す格好の舞台となった。そして下位カーストから上位カーストへ "けがれ" を転移するとされる「水」が、インドの人間関係を考えるうえで重要な要素であることを、カムロージ村の井戸掘り論争を通じて認識させられた。

ジャッジの構成までは統制できても、どうにもならないこの問題について、いつも水が話題になる。

<72ページ 不可触の現場 全文>
 インドがカースト社会だといっても、ニューデリーのような大都会では、日ごろ、カーストを意識させられるような出来事にはあまりぶつからない。仕事柄、私が頻繁に接触したジャーナリストや役人連中とは、こちらから持ち出さない限り、カーストが話題にのぼるようなことはまずなかった。
 ただ、われわれ外国人にも、ブラーミンなどカーストヒンドゥー(先に述べた四ヴァルナのいずれかに属する人々、いい換えればハリシャンでないヒンドゥー教徒)と、ハリジャンの間に横たわるさまざまな社会的・経済的格差は目についた。私が目撃した "不可触" の一例を紹介しよう。
 前章で紹介したように、私はニューデリー支局で、ジュボドゥ・シャルマ君を助手として雇っていた。そのシャルマ家では、十四歳の少女スイーパー(床ふき)のチャンチャル・バールミキさんを雇っていたことも紹介した。
 ところで、シャルマ姓は最高カースト、ブラーミンに属する。インドでは姓をきけば、その人のカーストがほぼわかる、といわれる。パンデ、ディクシットといった姓はブラーミン。そしてインド人によると、同じブラーミンでも「シャルマ」より「パンデ」姓のほうが上だという。
 "上" とは何が上なのか、なぜ上なのか、われわれにはよくわからない。一方、パールミキ姓は、彼女の出自がハリジャンであることを示している。
 チャンチャルさんの生活ぶりを知りたくて、ある日、シャルマ君と一緒にニューデリーの東、ジャムナ川のほとりに住むバールミキ家を訪れた。
 異臭を放つドブ、ゴミの山、はだしで走りまわる子どもたち。貧民街のど真ん中に立つ彼女の家は、小屋のようにみすぼらしい。
 そこで、彼女の父親プニラルさんが、「カンパコーラ」というコカーコーラに似た真っ黒なインド製の清涼飲料を出してくれたとき、私はそれを飲んだが、シャルマ君はもじもじして口をつけようとしない。
 するとプニラルさんは、「私がハリジャンだから飲めないのか」と、悲しそうにつぶやいた。「いや、囚の調子が悪いので……」と、シャルマ君は懸命に弁解したが、ウソをついているのは明らかだった。
 案の定、帰る道すがらシャルマ君は、「私自身はハリジャンを差別する気持ちはまったくないが、チャンチャルが私の家の近所の人たちに、カンパコーラを飲んだことを吹聴すると、家族に迷惑がかかるので……」と、気まずそうに理由を説明してくれた。
 インドの知識人は口を開けば、カースト制度の弊害を指摘し、その速やかな撤廃を主張する。インテリを自認するシャルマ君もその一人だったが、いざとなると行動が伴わない。二千年に及ぶ因習を前に、インドのインテリは、建前と本音に引き裂かれているように見える。その後、シャルマ君は結婚したが、相手の女性がブラーミンであったのはいうまでもない。


 インド憲法第十七条は、「不可触性(アンタッチャビリティの廃絶)を明記し、それに反する「いかなる形態の行為をも禁止」している。不可触性の廃止を憲法に盛り込み、アウト・カーストの桎梏(しっこく)から解放しようと努めたのは、インド憲法起草者の一人で、独立インドの初代法務大臣務めたB・R・アンベドカル博士である。
 博士自身、中部インドの不可触民カースト「マハール」の出身で、終生アウトーカーストなるがゆえの差別と抑圧に苦しみ抜いたといわれる。幼いころ学校の水飲み掛で水を飲んで上位カーストの級友にぶちのめされ、米英留学を終えて官庁に勤めたのちも、カーストヒンドゥーの部下から、書類を手渡されずに放り投げられた屈辱的な経験を持つ。
 彼はマハトマ・ガンディーが名づけた「ハリジャン」の呼称を「偽善的」だとしで拒否。ヒンドゥー社会にとどまる限り、アウト・カーストの社会的地位の向上はないと断じて、晩年、数十万の不可触民とともに仏教に改宗した。
 しかし、カースト解体の願いをこめて博士が起草した、インド憲法の制定から三十年以上経た今もなお、"不可触の現場" は散見される。

うちこもインド家族が「ああ、うちこちゃんあの掃除の子と仲良くしてるけど……」という目線を受けたときや、従業員との上下関係のものすごさに触れたとき、「あ、ここ。強い境界あるのね」と認識する。そういうときは家族に気を使わせないように、インドにいるときはその家のルールに合わせる。
アンベードカル氏については多くの日本人に知って欲しいな。インドで大橋巨泉みたいな銅像を見かけたら、この人かもしれないよ。

<84ページ 四歳の夫、二歳の妻 より>
 カーストといえば、日本では、中世的差別を生む因習としか見なされないが、無数の民族と言語と宗教が複雑に錯綜するインド亜大陸で、人と人とを結びつける積極的な役割を果たしている側面も無視できない。だからこそカースト制度は、多くの矛盾と欠点をかかえながらも、数千年にわたって生き延びてきたのではないか。
 結婚広告を見るたびに思い出すのが、暗殺された故インディラ・ガンディー首相の言葉である。
 首相はあるとき、南部カルナタカ州バンガロールで開かれた国民会議派の集会で、党員を前にこういった。
「皆さん、自分のことをインド人と呼びましょう」
 この発言は、ある党員が「自分はバックワード・クラス(遅れた階層)に属しています」と自己紹介したのに対し、首相が「自分はどこそこのコミュニティ(集団)に属しているといわずに、インド人と呼びなさい」とたしなめたものだ。
「遅れた階層」とは、経済的、社会的に恵まれない人々を指し、洗濯夫や路上の理髪師がこれに該当する。
 インド社会はカースト、宗教、言語、人種の相違にもとづいて形成された多種多様なコミュニティの集合体であり、各コミュニティの間には深い亀裂がひそんでいる。

この階層単語は組織の関係でも、まんま置き換えられる。

<87ページ ガンジスの岸辺で より>
「火葬料は相手の収入によって差をつけている。金持ち相手だと五百〜千ルピー(約一万〜二万円)、貧しい人からは五ルピー(約百円)ぐらいしかもらいません。当然、遺体を焼く薪の量に差が出てくる。普通、成人の遺体を焼くのに薪は約五百キロ必要だが、貧乏人はそんなに買えないので、完全に焼けないまま遺体を川に沈めることがある。人生、最後まで厳しいよ」と、チョードリさん。
 バーナラスのガートで荼毘に付され、ガンジスに沈められる遺体は年間ざっと三万。そのうち数千体は不完全な火葬のまま大河に流されるという。おまけに幼児の遺体はヒンドゥーの風習に従って荼毘に付さず、白い布にくるんで石の重しをつけて沈めるだけだ。
 舟でガンジスの川中にいると、ダサシュワメード・ガートのそばの岸辺に「クミコの家」と日本語で書かれた小さな石の建物が見える。九年前インド人と結婚し、現在バナーラスに住む日本人女性クミコ・シャンテ(旧姓佐々木久美子)さん(三十四歳)が経営する旅荘である。そのクミコさんは「ガンジスに浮かぶ赤ちゃんの遺体を、犬がくわえていくのを見ました」と証言した。

最後まで厳しいね。


次は、ダウリーの話。
うちこはあまり知られていないこれが、やっぱり気になってしまうの。

<118ページ 焼き殺される花嫁 より>
「嫁入り道具が少ない」「持参金が足りない」といっては、夫や姑から責め立てられ、耐え切れなくなった花嫁が焼身自殺したり、夫に焼き殺される事件がインドで頻発。怒った被審者の親たちが、嫁入り持参金廃止運動に乗り出した。
「女の気持ちはよくわかる」といった故インディラ・ガンディー首相の遺志を継いで、インド政府も運動に協力。『マヌ法典』の時代から、インド女性を縛りつけてきた因習の打破は、インド社会近代化へのワンステップとして、男性の支持をも集めはじめた。
 まず、花嫁残酷物語の実例から紹介すると──


■キシェン・ジャスワンチさん(二十二歳)──
ニューデリー郊外ナンロイ村の富裕な公認会計士ラビンダー・シンさんと八〇年に結婚。貧しい水道修理工の娘だったキシェンさんの嫁入り道具はふとんだけ。結婚後すぐに「持参の品物が少ない」と、夫や夫の家族に責め立てられ、翌年五月、実家に逃げ帰った。夫が非をわびたので、いったん婚家にもどったが、迫害はやまず、二日後、全身に灯油をかけて焼身自殺。わが身の不幸と因習への恨みをこめた両親宛での遺書が残されていた。


■サントシュ・マルホトラさん(四十五歳)──
ニューデリー郊外に住むジャグディシュ・ラルという会社員と六〇年に結婚、一男二女をもうけた。嫁入り道具として宝石を持参したが、結婚二十年以上経た今も、夫は「不足だ」と文句のつけどおし。夫がサントシュさんの銀の腕輪を無断で売り払ったことから夫婦げんかとなり、挙句の果てに、夫は就寝中のサントシュさんに灯油を振りかけてマッチで放火、焼き殺した。苦しい息の下で、サントシュさんは夫の犯行を医師に告げた。


■サシ・バラさん(二十一歳)──
ハリアナ州の高校を卒業後、ニューデリー市内に住む事務員と結婚。「持参金が少ない」と責められ、このほど焼身自殺。妊娠六ヵ月の身重だった。


インドの持参金の風習は、古代の叙事詩ラーマーヤナ』にその記述が見えるというから、歴史は古い。それだけにこの囚習の根は深く、今日でも、ほぼインド全土に残っている。
 持参金の額は、相手男性のカーストや社会的地位によって異なるが、月収五百ルピー(約一万円)そこそこの下級公務員でも三万ルピー(約六十万円)、医師、技術者、高級公務員、銀行員など、インドで社会的地位の高い男性だと、十万ルピー(約二百万円)以上要求できる。これに冷蔵庫、テレビといった電気製品や家具をつけるので、花嫁の父の負担は祖大変なものだ。
 日本の感覚でいえば、数千万円にもなろうか。そこで北西部のパンジャブ地方では娘が生まれるや嫁入りに備えて衣服、ベッドシーツ、ナプキン、ふとん、ソファ、鏡などの家具類を徐々に買いため、嫁に行くとき持たせるのがならわしである。逆に母系制家族色の強いケララ州のように、夫が花嫁側に贈り物をする例もある。
 「ダウリ」という英語で表現される持参金は、厳密にいえば夫へのプレゼントではなく、家から家へ贈られる現金や物品。だから少ない持参金に飽き足らず、花嫁の両親から1ルピーでも多くのカネを引き出モうと、一家をあげて、妻あるいは嫁をいびることになる。なかには持参金を二度せしめようと、妻をことさら虐待して再婚を狙う男も出てくる。
 インドの新聞報道によると、こうした "いびり" に耐えかねて、みずから命を絶つ女性の数は年間二千人にものぼる、という。特にニューデリーにこの種の事件が多く、ある女性団体の集計では、八二年に六百十人の花嫁が命を落としている。

お嫁さんの立場が弱いなぁ、というのは、仲のいい家族でも感じる。子どもを産んで、初めて母として存在させてもらえているかのような。昔の日本もそうだったのだと思う。そして、魂に沁みついたような感覚的に、きっと今の日本もそうだと思う。

<171ページ コーランとともに より>
 夜十時。薄暗い電灯の下で、バハトゥールさんは一人で就寝前の祈りを捧げる。
「私の最も好きな聖句はこれです」と、紙にアラビア文字を右から左へ書きつらねた。
「私(神)は汝の頸動脈より汝に近いところにいる」
 バハトゥールさんの一日を見ていると、イスラム教が、いわゆる "イスラム・パワー" と形容される戦闘的な信仰ではなく、静謐な祈りの宗教であることがよくわかる。人々はコーランとともに生きている。

すごい聖句だ。

<174ページ 「ブタ!」の一声で大暴動 より>
 ビワンジのような衝突事件は、普通「宗教戦争」と呼ばれているが、これは正しい表現とはいえない。そもそもヒンドゥーイスラムは、日本人の抱く「宗教」のイメージといささか質を異にする。
 両者はともに、個人の内面にかかわる形而上的な領域を内部に包含しつつ、同時に、世俗的な生活の基盤から個人の思考と行動を全面的に規制する社会規範、といった様相を呈している。したがってこの種の紛争は、「ヒンドゥー教」対「イスラム教」の宗教レベルの対立というよりも、「ヒンドゥーイズム」と「イスラム」という社会規範に縛られた二つの社会集団(コミュニティ)の世俗、宗教両面にわたる全面的な解決、と考えたほうがよい。すなわち、これがコミュナリズムである。
 コミュナリズムは「宗派主義」と訳されているが、これも宗教レベルの対立を示唆していて、正しい訳語とはいいがたい。コミュナリズムは「宗教紛争」を装いつつ、その根底に、必ず二つの社会集団の世俗的・経済的な利害の対立を秘めているからだ。

紛争理解のむずかしいところは、ここなんだよね。

<192ページ 「世俗国家」を賭けて より>
 八四年五月四日、日本の首脳として二十三年ぶりにインドを公式訪問した中曽根首相を、ニューデリーのパラム空港に出迎えたガンディー首相。これがインドの "女帝" を見る最後の機会になろうとは、夢にも思わなかった。
 それから半年近く経た同年十月三十一日、ニューデリー市内サフダルジャン街一番地の首相官邸敷地内で、ガンディー首相はシーク教徒のボディガード、ビアント・シン警部補、サトワットーシン巡査の放った凶弾に箆れた。
 この日朝、首相は英国の俳優ピーター・ユスチノフがインタビュアーを務めるテレビ番組の録画をとるため、官邸敷地内の南にある私邸から、北の執務室に向かった。私邸と執務室を結ぶ約百八十メートルのコンクリート歩道の半ばまできた午前九時十八分ごろ、警備勤務中の二人のシンが自動小銃と短銃を乱射、六十六歳の女性宰相はオレンジ色のサリーを鮮血に染めて崩れ落ちた。
 シーク教総本山、ゴールデン・テンプルの軍事制圧に憤激したシーク過激派の報復テロであったことはいうまでもない。
 ガンディー暗殺の報を聞いた瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、ゴールデン・テンプルのそばにあるシーク教博物館の光景である。ヒンドゥーイスラム両文化圏の接点に生まれたダーク教は、本来イスラム勢力の侵略からヒンドゥー教徒を守る武装集団とされ、近世にはイスラム教徒のムガール帝国専制支配に抵抗して、多数の殉教者を生んだ。
 博物館には、シーク教徒殺害に使われた刀剣類、ムガールの兵に槍で串刺しにされる第九代グル(尊師)・バハドゥールら殉教者の姿、そして一九一九年、アムリッツァーのジャリアンワラ・パークで起きた、ダイヤー将軍指揮下の英軍部隊によるシーク教徒大虐殺事件など、生々しい迫害の場面を描いた絵が多数展示され、これでもかこれでもか、と執拗に見る者に訴えかけてくる。
 そこに現われた強烈な被害者意識と怨念、その反面、英国統治時代から優秀な軍人として重用され、芸術、科学、スポーツなど各分野で多くの人材を輩出した優越感が、ガンディー暗殺を頂点とする「ターバンの反乱」の背景に横たわっていることは否定できない。
 複合民族国家インドは、宗教の増蝸でもある。ヒンドゥーイスラム、シーク、ジャイナ、仏教、キリスト、ゾロアスター等々。そしてアラビア海に臨む南西部の港街、コチンの片隅にひっそり立つユダヤ教シナゴーグを見つけたとき、インド社会の底知れぬ複雑さに圧倒された。
 しかし、これらコミュニティ間の対立は、日本人が考えるほど絶対的なものではない。日本のマスコミは、異教徒間の衝突や暴動が発生したときだけ大々的に報道するので、あたかも、彼らの対立が絶対不変の宿業のように受けとられがちだが、実態はそうではない。この点は、いくら強調しても強調しすぎることはないだろう。インドの農村ではヒンドゥーの祭にイスラム教徒が加わってともに楽しむ光景は珍しくないし、先に紹介したサルワル夫妻のような異教徒間の結婚もまま見られる。飛行機事故で亡くなったインディラ・ガンディー首相の二男、故サンジャイ氏の未亡人マネカさんは皮肉なことにシーク教徒である。

そう、インドへ行くと「多数宗教の共存」を目にすることがよくある。工場で午後の礼拝へ行くムスリムの人たちを、ヒンドゥーの人が「そうか。そんな時間だね」といって送り出していたり、ムスリムの断食を終えた友人をヒンドゥージャイナ教キリスト教のお友達が囲んでパーティをしたり(これは以前日記に書きました)。これを不思議と感じる自分の感情が、不思議になる。決して排他ではなく、共存する前提の上ですべてが起こっている。


何度もインドへ行っているからインドに詳しい、ということにはならないと思う。郷に従う旅行者が、インド人のオープン・マインドの背景ごと呑まれていけるかどうか。そこだと思う。違いばかりを探していても、しょうがない。
うちこは子どもの頃から、よその家によく入りびたる子だった。もともと呑まれやすい体質に育ててもらったのだな、なんてことをよく思う。そしてうちこを育てた母も、二つ返事でインドでもスリランカでもついてきて、どこでも母娘で呑まれる(笑)。
「神秘」を共有する絆よりも、「超リアル」を共有する絆のほうが、思い出深い。