うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

つぶさにミルフィーユ 森博嗣 著


このシリーズは毎回発売されてすぐに電子書籍を買って読んでいるエッセイです。昨年の12月に、ちびちびお風呂で読みました。
Kindleのメリットを「風呂で読める」というところに感じる人はけっこういると思うのだけど、そうでもないのかな。わたしは冬になると電子書籍をたくさん読みます。毎晩冷えるので、ついつい読書が進みます。


今回は『人の呼称に、「ちん」や「さ」を付ける習慣が廃れた?』という話を読みながら、昔のことを思い出しました。
子どもの頃、わたしは大人の人同士が「ちゃん付け」で呼び合っているのが少しおかしいと思っていました。同時に、いいもんだなと思うようなそういう気持ちも少しありました。
でも「ちん付け」で呼ぶのはなにかの間違いか? と思っていました。そのように少し変わった音で呼ばれているおじさんは、昔コメディアンになりたかった過去を隠しているのではないかというような、そういう不気味さを感じていました。「ちん付け」で呼ばれているおじさんはゴレンジャーでいうならばイエローのポジションでずっと生きてきて、呼称が残像のように残されたままもうそのままいくしかなくなってしまったのだと思っていました。が、このエッセイで、こういう習慣が時代としてあったことを知りました。
あのおじさんを不気味がっていたことはまったく無駄だったのだなぁ…。こういうのは教えて欲しかったな。聞かなかった自分が原因といえば、そうなのだけど。でもそんなこと、いちいち大人に聞かないよなぁ。そしてこういうことって仕事の場面でもたまにあることのように思います。え? それをやっている理由って、昔の名残り? ということが。


呼称の、「○○さ(○○は人名)」もそうなのか! というのも同じトピックで知りました。アラレちゃんがタロウさんをタロサと呼んでいたのもそう? あれはペンギン村の方言かと思っていたので、ほよよと思いながらスルーしていたのだけどな…。でもよくよく考えると子どもの頃に見ていたアニメやドラマというのは作っているのはかなり年上の人だから、そういう要素が紛れ込んでくることに不思議はないのですよね。
野球ドラマのレット・ビッキーズにもサッチンって子が居たな…。などと断片記憶が続々と沸いてきたり。
自分がそれを若い世代の人に対してやる側の世代になってきたので、「時代の名残り」という理由のある習慣的な言葉が気になりました。(逆立ち=ひらめく、とか…)


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