うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドには神対応がない。神は神だから。そこがすき

昨年だったかおととしだったか、銀座のヨガ練習のまえにある人が「"神対応" って言葉がすごくこわい」という話をしていて、これはわたしたちの日々の窮屈さをよくあらわした話だなぁと思ったのですが、インドでは神対応という概念がありえない感じでした。神は神なのでね。
過度な期待を笑顔で表明しながら他人をコントロールしようとするというような、やんわりと忖度を乞うような、そんなやり口は通用しない。物乞いは物乞い。欲しいものはくれといってくる。どんどんくる。行為、行為、行為の連続。いろいろ、とてもラクでした。
わたしはインドのそういうシンプルさに安らぎのようなものを感じるのだということに、今回の旅で気がつきました。


インドはよく嫌いになる人とそうでない人がいると言われたりするけれど、もしかしたらその境界はこういうところにあるのかもしれない…。とも思いました。
以前はこの境界を「スピリチュアルなものがすき・きらい」だと思っていて、自分は前者には仲間入りしないぞ! という思いが強くあったのでなるべく考えないようにしていたのですが(笑)、どうやらそれだけでもなさそうです。
そしてここ数年自分と関わってくれている人を見回したときに、どこかで "神対応" という言葉のこわさを共有できている、そういう人の比率が上がってきているようにも感じ、人の細胞は7年で入れ替わるというけれど、少しずつ日本教的そんたくコミュニケーション・テンプレートから足抜きができてきたかな…、と、そんなふうに感じています。


わたしは思わせぶりなことを言ったりほのめかしたりして他人をコントロールしようとするやりかたと、モノゴトをじっくり観て抽象化する技術には雲泥の差があると思っているのですが、日常ではこの差について語られることがありません。近ごろはよくわからない平等主義者による攻撃を避けるために、それは密室で語られます。わたしも年々、友人との語らいや長い文通が増えています。この差について語ることは、とてもポジティブな行為なのです。


そんなこんなでインドで自分が大切にしたいと考えていることについて手触りを得たような、小さな変化を感じながらマサラ臭漂う電車の中で「壇蜜日記3」を読んでいたら、実にしっくりくる。壇蜜さんが文章の中で発揮する、モノゴトをじっくり観てから抽象化する技術はかなりのもの。…と思っていたら、新年に続編が出ていて、しかもいきいなりKindleで買えるではないのー。もー。神かー。