うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ブッダの方舟(後半) 中沢新一 × 夢枕獏 × 宮崎信也

先日紹介した本の「第四章」「エピローグ」のなかからいくつかご紹介します。第四章は「超高層の宮沢賢治」という章で、これがすごくおもしろかった。宮沢賢治については、以前別の本の一部にあった「農民芸術概論綱要」を紹介したことがありますが、これを読んだらますます興味が強くなった。いつかじっくり、ハマってみようと思う。
後半も相変わらず夢枕さんがナイス・ファシリテートなのだけど、「エピローグ」は「中沢新一 × 宮崎信也」の構成で、獏さん抜きです。フリッチョフ・カプラの話題が登場しますので、より深く読みたい人は「タオ自然学」の感想が参考になるかもしれません。

<242ページ 賢治の先見性 より>
中沢:法華経は、なくていいやつがいっぱいいるよな。『原子物理学と法華経』という本を書いた先生がいるよね。読んで、ばかばかしいからやめちゃったけど。カプラとか、ああいう人が法華経のことをよく知ってたら、クォーク理論と法華経がつながっているとか、そういうことを書くと思うよ。仏教メタ理論、物理学はそういう論理をつくろうとしている。


夢枕:物理学って、つき詰めていくと仏教にぶつかっている感じがすごくしますよ。


宮崎:逆に僕たちにとっては、物理学によって、「忘れられていた仏教本来の伝統哲学」が呼びさまされたとも言える。


中沢:もしも賢治のことをすごく買い被っていたら、彼はそういうところを予見してたんだろうと思う。つまり科学のエッセンスというのがあって、賢治の頃はまだ現代科学の最初の時期だったけれど、科学がかくあるべきというのを見ていた人はあの時代けっこういたと思う。アインシュタインにしてもそうだ。たぶん賢治も現代科学技術 ── 彼の場合は技術の要素が大きいから ── がかくあるべきものというのがあった。それがいまになってはっきりわかってきたわけ。たとえばカプラみたいな形で、東洋思想とけっこう近いのじゃないかといった表現をするように、現代科学の理想というのが、二○年代にはもう予見できたと思う。それと賢治の予見というのはけっこう近かったんじゃないですかね。


宮崎:それは書いていますよ。「宗教はいま滅びてしまった。その次に代わるべきものとして科学が現れたのだけど、それはあまりに寂しく冷たい。その二つが一緒になってくることは、宗教と科学の次の新しい時代である」ということは書いています。


夢枕:物理学って、量子でもなんでもつき詰めていくと、存在とは何か、といういちばん根本的なこところにぶつかっちゃうんだよね。


中沢:存在するって何か、ということを理論的な言葉で言うことだものね。

宗教と科学が一緒になる新しい時代は、こんなに「根の強さ」が必要ないまの日本でも実現していない。たしかに、「存在するって何か」。こりゃ実にシンプルだ。

<251ページ 「東洋」とはフィクションだ より>
夢枕:瞑想している時には、頭の中でお経を読むわけでしょう。


中沢:お経というか、マントラ……。


夢枕:マントラももちろん原語の音で発声しているわけですか。


中沢:いや、僕はチベット訛だよ。僕は全部チベット訛でやっているから、そうすると、仏教学者に「あなたの記述語は間違っている。ダーキニーでないといけない」とかね。


宮崎:僕なんかはその逆で、サンスクリットで言うと、日本訛に直されたりして……(笑)。


中沢:俺なんかボンボン書かれるの、それ。そんなのどうでもいいんだ。ABCだっていいんだもんね。


夢枕:あれは意味ないですよね。いまの「ダキニ」が「ダーキニ」なのか「ダキーニ」なのか、それはほとんど、空海的な表現をすれば、瑣末的なことです。"些々たること" ですね。


宮崎:全体をつかんでいて、そのうえでひとつのところを言っているのだったらいいけれども、全体をつかんでいない人間が言うのは間違っている。


中沢:そうだよね。俺は瑣末なことは全然わからないけど、とりあえず全体だけはわかっているつもりではいる。一生かけて瑣末なところまで少し頑張ってみようとは思っているけれども、向いてないみたい。

中沢先生が「俺」いうとりますよ(笑)。
なんで便乗しちゃうけど、うちこも「ヨガ日記、ねえ。ヨーガのことね」とかそういうのは面倒ね。だってそんなのSEO的に「ヨガ」じゃん。そんなんでわざわざ不親切に検索エンジンにひっかかりにくくするこたぁねぇだろネット発信なのによぉ、とね。あたしゃ親切さを優先するね。あとね、発音で言うと「ィヨォガ」とか聞こえたりすんじゃんよインド人の発音よぉ。とか思ったりもする。あーすっきりした(笑)。

<254ページ 仏教実践の二つの形 より>
中沢:インドの坊さんにもいろいろある。苦難の道を歩んでいる日本の坊さんのほうが好きだなと思う時もある。タイとかミャンマーとかセイロンの小乗仏教の坊さんなんかむやみに尊敬されているでしょう、理由もなく。


夢枕:坊さんであるというだけで。


中沢:そう、坊さんというだけでね。それで、こうやって勿体ぶって道を歩くと、朝なんかお布施をいっぱいもらっちゃって、僕、あれいやなの。坊さんというだけでこんなに尊敬されていいのか、とかね。


夢枕:芸をしてもらう芸人のほうがまだ納得がいく。


中沢:そうだよ。チベットなんかけっこう苦労しているからね。大鼓たたいたり、マントラ唱えたり、「お宅に悪いことはありませんか」なんて言って、「ああ、そうですか。じゃあ、あたしが悪魔祓いしてしんぜましょう」みたいなことを言って、リーンとやる。俺の先生なんか情ないですよ、悪魔祓いの名手。


夢枕:やっぱり大衆の受けをねらわないと生きていけないんですよ、宗教家でも何でも。受けっていうか、大衆と共にいなければね。


中沢:そういうのを見て、スリランカなんかへ行くと、何でこの人たちは坊さんというだけで尊敬されるわけ? とか思っちゃうのね。

もー、ほんとそうなのよスリランカの僧侶。アーナンダおじさんも「彼らは一番のビジネスマンだから、とりあわなくていいんだよ」って言ってたし。(参考日記「ブッディスト詐欺」in スリランカ

<257ページ 仏教実践の二つの形 より>
夢枕:仏教の実践って、二種類あると思うんです。小乗的な実践 ── 自分が修行して、自分の悟りというか、そういうレベルを上げていくというのがひとつと、あとは賢治的な方向ですよ。みんなのために自分の一生をほんとうにささげる。つまり坊さんになるわけでもなくて、自分がいるポジションでみんなのために頑張るように努力してしまう。その二種類だと思いますね。


中沢:そうだよね。坊さんにならなくていいんだよ。自分のいるところでいいんだよね。


夢枕:坊さんにならなくていいんですよ。ほんとうに、自分がいるところでいいんだよね。仏教の実践というのは、自分が……たとえば僕が小説家ならその小説を書きながら実践していく。最近では宮沢賢治以上の仏教者って、お坊さんの世界にも少ないよね。


中沢:だから獏さんは小説を書いてやってんだよね。それがほんとうの大乗の精神なのね。この世の中で頑張る。

うちこはひとつのことに打ち込む瞬間をしっかり持っている人を「○○ヨギ」といったりするのだけど、まさにこのこと。逆に、サラリーマンでも何でも、自分のいるところを否定するためにヨガを引用する人とは距離をおいたほうがいいと思っている。

<259ページ 大乗経典をつくった謎の人々 より>
宮崎:お経を書いた人って、まったくわからないんですよね。原則としてわからないんです。これはあたりまえのようで、実は不思議なことだなあ。


夢枕:律というのは、お坊さんが守る戒律を書いたものですか。


宮崎:そう。でもイスラム教のような神の掟としての戒律じゃなく、サンガという、共同体というコミューンがうまい具合にやっていくための規則。


夢枕:お経はいまは書けないわけでしょう、嘘をつかなければ。


中沢:チベットでは埋蔵経という手があるわけ。


宮崎:自分で書いて埋めておいて、あとから知らんぷりして、「こんなものが発見された」と掘ってくるやつ……。


中沢:そう言っちゃいけない(笑)。


(中略)


夢枕:要するに自分で言っちゃったことを正当化するために、こういうお経があるというのをつくるわけなんですか。


中沢:いや、そういうことだけではなくて、あれはインスピレーションがある。夢の中でお経が浮かんできたりするじゃない。けっこうよくできているのよ、それが。それで「掘り出した」とか言うんだよね。


夢枕:でも、それは正しいんじゃないですか、掘り出したというのは。逆に言えば、インスピレーションできたのも、地面から掘り出すのも同じですよ。


中沢:掘り出したということは、長いことみんながわからなかったものがここに至ってわかったということ。真理ってそういうものだよね。

面白いやりとり。最後の夢枕さん、こういうところが素敵。魅力的な人ですね。



ここからは エピローグ『仏教と「有」の思想』 からの引用です。
夢枕さんは登場しない、二人の対談です。

<285ページ 釈尊と国家 より>
中沢:仏教の人たちに疑問をもつのは、仏教が生まれる前の人間はまるで阿呆だみたいなことをよく言ったり書いたりしていることです。冗談じゃないと思うんです。人間が何万年もかけて積み重ねた叡知というのは膨大なもので、そういうものの背景がなかったら仏教なんかもありえないはずなのに、それまではすごく未開野蛮なインドがあって、その中に仏教の叡知が突如現れたみたいなことを考えるけど、冗談じゃないと思うんだ。


(中略)


 仏陀のことを考える時重要なのは、国家を生産するのと同じような普遍性の概念というのが出てくることです。かつての、個人の体験の中から救いに向かっていくという知識人の伝統というものと、国家というものを形成してくる時に出てくる普遍性の概念、部族制を超えていくもの、そういうものを結合しない限り、仏陀の思想というのは出てこないような気がする。暴論ですね、あいかわらず。

マネジメント関連の本を読んでいても、同じようなことを思う。「だめだ。仏心捨てないとサラリーマン無理かも」というのと、「執着なく軽やかにはたらく、生きる喜び」が行ったり来たりする。

<288ページ 共同体論の持つおとしあな より>
中沢:チベットなんか見てても、山の中で独り修行している人たち、ミラレパみたいな人たちには、サンガはないでしょう。


(中略)


仏教の場合は超能力という部分がすごく弱いわけね、仏教はかなり理知的なところがあるから。それでいながらサンガをつくろうとする。そのためにどうするか。そうすると、カリスマ的な女性作家とか、いろんな方々が登場してくるわけで、基本的な構造は変わらないわけですね。
 そうすると、現代日本の中で生きる仏教というのは、結局、アトム化してしまったこの日本の社会の中で、かつてあった共同体を疑似的に都市生活、現代生活の中で再現するようなサンガをつくりだすことを目指す、そういう運動の中の一パターンにすぎないのかということになる。僕は仏教にもそういうものを感じちゃいます。

カリスマ的な女性作家とか(笑)。
うちこは、このサンガっていう行いの場面にいるとき、どうもまだ自然にしっくりこないときがある。だからミラレパたんに惹かれちゃったのかな。ビール・サンガはぜんぜんアリなんだけど、ヨガの場面で「これがサンガです」と後出しのようにいわれて「えー?!」と思うときがある。思わないときももちろんあるのだけど。

<292ページ 探求の先にあるひとつの確かな場所 より>
中沢:無の思想としての仏教に僕はあまり魅力を感じないんです。キリスト教ギリシャ思想が哲学と思想の本質は有だ、存在だと言った時のほうが、僕はずっと真理に近いと思う。少なくとも僕が学んだチベット密教は、有を説いていた。有としての無、無としての有というかな。無を説く仏教は、思想としてはそれはあると思う。しかし無の思想としての仏教を説いている人たちに、僕は嘘を感じちゃうんです。この世界の本質に対して嘘を言っているってね。すべては有から発しなければいけないと思う。ただ、その有とどうとらえるかということが問題で、その点において仏教は有に対してキリスト教とは違う思想展開をした。でも、ストレートな無の思想とは違うと思うんだ。
 そうした時、ということの意味を深く考えていくと、それは存在しようとする意志と同時に、存在してしまったものを救わなければいけないということを必然的に伴う。同時に慈悲というものが有という思想から発する。慈悲は有というのがないとありえない。と同時に、キリスト教が愛という場合の愛というのは、存在するということの意志と深く結びついているわけで、仏教の慈悲もやっぱりそうだと思います。

「存在しようとする意志と同時に、存在してしまったものを救わなければいけないということを必然的に伴う」という「有」の慈悲の説明は、このあと続けて紹介する引用内容ともつながります。

<301ページ 資本主義と人間の欲望 より>
中沢:生きていることは、大乗的な発想をもたない限りあまり意味ないんじゃないかな。


宮崎:大乗というと、存在するということに対する愛ですか。


中沢:存在に向かう意志があるよね。慈悲がそこから生まれる場がね。


宮崎:すべてのものの始まりから今の世の中をかくあれとならしめている意志。


中沢:それと同時に、これはアメリカの仏教学者のハーバート・ギュンターがいい訳をしているなと思うけれど、慈悲というのを《A desire for communication》と訳している。それはどういうことかというと、存在してしまったもの同士がお互い通じ合いたい欲望をもつ、それが慈悲のひとつの根源である。それと同時に、存在者を超えてあるものに通じ合いたいという欲望を抱く。それがコンパッションだ。── これはすごくいい翻訳だと思っているんだ。

「慈悲なき繋がり」という欲望について、一瞬考えてしまった。人と繋がりたいと思うとき、「なにをもって通じ合いたいと思うのか」ってことを意思しない人間にはなりたくない。

<306ページ コミュニケーションは自己を破壊する運動 より>
中沢:彼(仏陀)が同じ僕らの時代にもし生きたとしたら、たぶん資本主義社会の、大衆的なところでその思想を展開すると思うの。やっぱり最初から資本主義を否定したりしないと思うよ、同伴者としてはじめ、と同時に、中からそれを食い破って超えていくことを考えると思う。つまり、人類史がそういうステップを超えていく瞬間瞬間に仏陀が存在となって立ち現れて、それを内在的に食い破っていった。つまり世界は常に何かを実現しようとして実現できなくて、別のものを表現してしまうわけだ。でも、その時に世界がなにを表現したがっているということを最終的な表現にまで常にもってこうとするものも生まれる。世界は情ないことに、そういう表現に至らないところでいつも落ち着いちゃうわけだけれども、それは違うんだ。


宮崎:仏陀の言説というのは、どこかに落ち着こうとするものに対し絶えず違う可能性を提示していくべきものだと思うんです。


中沢:その身振り、仏陀の身振り、思想の身振りを真似ればいいんだと思う。それが真の仏教徒だと思う。仏陀がその時代の表現において表現したことを、あるいはナーガールジュナがその時代において表現したことをそのまま伝えることが仏教なんではなくて、身振りが、問題なのさ。


宮崎:その時代に対してどのような身振りをとったかということをいまの時代にもするべきだということですね。


中沢:その一貫性はあると思う。

なにかを否定するために使えちゃう思想ってのは、きっとなにかターゲットをもった「いいわけ」なんだろうな。こういうのを「懐(ふところ)」っていうのかな。

<310ページ 時代の変革期と仏教思想 より>
中沢:日本思想は本来ドメスティックな発想なんですよ。ドメスティックな発想だけれど、それを問い詰めていくと、もっと深いものが出てくるわけです。インド人のドライなものじゃないものがあるわけでしょう。はっきりそういうことを認識していくのが大事なんじゃないかなと僕は思う。弘法大師の『即身成仏義』は独創であるというふうに考えたほうがいいような気がするんだ。あれは仏教の教義をまさに密教論理的に発展させたものだとか、無理なこという必要はないと思うの。

「無理にそんな意味づけしなくても、これってこうなんじゃないかな」と思うことって、けっこうある。この本の中で、中沢氏はあちこちで文句を言われそうなことをたくさん話しているのが面白い。気持ちがいい。


久しぶりに面白い対談本を読みました。

ブッダの方舟 (河出文庫)
中沢 新一 夢枕 獏 宮崎 信也
河出書房新社
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