書店でパラパラとめくっていたらいくつか読んだことのある小説が題材にされていたので、まだ読んだことのない小説も読みつつ、追いかけるように読みました。
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』は魂のインフレーションを起こした人について書いた傑作(P26)と紹介され、『いなか、の、すとーかー』はストーカー被害者の深刻さを描くとともに、ストーカーになってしまう人の苦しさも描いている(P44)と紹介されています。
『それから』はわたしも平岡という人物の視点で読んでみたことがあったのですが、常に自力で生きているという姿勢を崩さない平岡に対する代助の嫉妬(P70)という読みかたに納得。そしてこういう「実社会で行動する人への妬み」は、現代のほうが軽量化されつつもSNSによって感情を生む回数は増えているような…、なんて思ったり。
『コンビニ人間』については、わたしも以下に書かれている意味で「評価に戸惑う社会の一員」です。
『コンビニ人間』に賞を与えながら、社会はいぜんその評価に戸惑っているように思う。筆者が知る限り、この作品の方法論などに関して、本格的な書評は出ていない。そういう意味では、自己愛消滅のリアリズムをギリギリのところで認めたのが、今回の芥川賞ではなかったかと感じるのである。(P91)
主人公の古倉さんのような自己愛の滅しかたに共感しつつ、白羽という人物の思考や発言には「こういう思考をする人は、口にしないだけで身近にもけっこういると思うし、他者もそこはわかっていつつも刺激しないようにしているところだよね…、ってとこを、え、書いちゃう? え、いいの芥川賞?!」みたいな気もしていて、なんか2ちゃんねるを地上波のテレビで垂れ流すのもアリになったかのような感覚になったものでした。そういう種類の驚きがありました。
『ナイルパーチの女子会』が上記の作品と並べて書かれている以下の部分は、"うわぁ" と思いつつも、"うわぁ" の先を考えることの重要性を「ね? そうでしょ?」と示された。ずっしり。
こうして、世の中で評価された小説を並べてみると、格差社会の進展の中で、今目の前に見えるのは、「『ナイルパーチ型』と『コンビニ人間型』のどちらを選びますか?」の世界だという気もしてくる。前者のように、様々な形で自己愛を歪ませつつもどうにか生き延びるのか、それとも負の感情から完全に解放されることを目指すのか。
新自由主義の浸透、格差拡大という大枠の流れが変わらない以上、その二つの選択肢から逃れるのには、相当な努力が必要になるのは確かだろう。まずはそのことを認識することが重要ではないか。(P98)
この本はさまざまな小説を引きつつ、「いま」の感情の流れを紹介するここまでで第一部。
読者を見放したりせず、その先の第二部と第三部では、専門家との対談やQ&Aのかたちで実際に日常で見られることが話されたり書かれたりしています。
ヘイト本や日本礼賛本が多く出版される流れについて書かれている箇所もあって、そのあたりもすごくリアル。売り上げの面で失敗しない落としどころ(損益分岐点は越える)までは持っていこうとする頭の良さがある人たちが平均以上を狙うと、そういうテーマを選ぶということになってしまう。
「負の感情は、いけない」ということまではわかっていても、「負の感情を制するって、どういうことだろう」とリアルに掘り下げて考える機会はあるだろうか。わたしは友人と話すときも小説を題材に話すことが多いので、とくに第一部はのめりこむように読みました。
『ナイルパーチ型』も『コンビニ人間型』も避けたいわたしは、さて、どうしよう。いつも通る道に、ごろんと大きな岩を二つ置かれたような気分です。