うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

人生のゲームに参加しようとしない、冷笑的なスタンスにならないようにしたいと考えるようになるまでのこと(夏目漱石「行人」読書会での演習より)


先日夏目漱石の小説「行人」の読書会をしたのですが、そのときにあるひとつの課題が浮き上がってくる場面がありました。事前の宿題のひとつに、この小説の中である人物が口にする「残酷」というのはどういうことを言いたいのだろうか、ということを考えてくることにしていました。
この日は話の途中で隣に座っていた人から「うちこさんの文章も、変わってきてますよね」と言われる瞬間がありました。それはわたしがこの小説の中でいう「残酷」について考え続けてきたことによるものかもしれません。
初参加のかたがこの葛藤を野球にたとえてすばらしい紐解きをしてくださったのをきっかけに、人生というゲームと役割と義務と、参加意識のありかたについて、壮大な反省会がはじまりました。


わたしもこれまでの自分の心のはたらきを振り返りながら、冷笑的なスタンスにならないようにしたいと考えるようになるまでのことを話しました。
自我を滅しているかのようなフリをしながら、いざ自分の立場が優勢になったときだけ、ちゃっかり顔を出すあの自我。



 いい球を投げてくれたら、バットを振ってあげてもいいわよ



と内心思いながら、日々練習も素振りもせずにバッター・ボックスに立つあのずうずうしさ、狡猾さ、ずるさ、甘え、ふてくされ。そして冷笑。
これは親しい間柄であるほどやってしまいがちです。なぜならピッチャーから「チェンジで。」と言われないから。日本式の雇用は「チェンジで。」と雇用側がいいにくいので、職場でも起こりがち。


わたしはここ数年で仕事のしかたを「チェンジで。」とすぐに言われるはたらき方に変えることで、自分を見つめることができるようになりました。以前は拾わずに流してきた感情、いろいろな思いを以前よりも言語化するようになりました。主体性を放棄するずるさ、あの残酷さを行使できない状況へ自分を追い込んでみることで、今さらながら考えることが多々あったのでした。
就職したら安泰? 結婚したら安泰? 貯金がたくさんできたら安泰? 自己犠牲を尽くせば罪悪感から解放される?



 こういう問いって、まだまだこの先の人生でも発生すると思うんです。
 だから、いま一緒に考えてみましょう。ひとりじゃ、しんどいし。



何度か、こんなふうに話している瞬間がありました。
読書会をしていると、まるで参加者のみなさんといっしょに登山をしているように感じることがあります。


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