うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

女の子よ銃を取れ 雨宮まみ 著


好きな服を着ることについてのエッセイなのだけど、自己評価をしつこいくらい掘り下げている。差別される感情を哲学しているかのようで、ときどきものすごく深いところまで引きずり込まれる。
読みながら、こんなに加齢をおそれていたら、つらかろう…。という思いがひたすら続いて、まるで自分にデリカシーがないかのように感じたけれど、実際わたしがスルーできているだけで、たしかに服装についてあれこれ言う人はいる。
わたしは平日はときめく服を着ない「ジョブズ化」で生活しているけれど、それでもジョブズ化で採用したシャツは自分なりにニヤニヤできる選択をして、自分だけの楽しみにしている。いまのように他者の目は便宜上ということにして自分だけの楽しみと折り合えるようになったのは、最近だ。
あまり抑圧を気にしないわたしのような鈍感な人間でも、「鏡の中の女の子」に書かれている以下のようなことは、わかる…。わかりすぎる…。

 なんとなく「鏡を見るのが怖い」と感じるとき、そこには必ず自分にとってなんらかの問題がひそんでいます。自分にとって、向き合いたくない問題である場合、鏡がほこりだらけになって曇っていても気がつきません。曇っているほうが自分にとって都合がいいからです。

「綺麗になる」とか「自分磨き」という言葉は楽しそうなイメージですが、本当に気にしている部分に向き合うのは大変な苦痛です。そこを見つめる代わりに、気にしなくてもいい部分を磨き上げたり、買わなくてもいいメイク道具や服を買い足したり、「その部分を見ないための努力」ばかりをしてしまうことがあるのです。

このエッセイは全般、こういうちょっと焦点をずらして「でも、やっていないわけではない」みたいなことをする感情の拾いかたが巧み…。なんか詰められる感じ。


「嫉妬する女の子」という章では、これでもかというくらい「嫉妬」の背景を分解しつつ、大切なことを拾い上げようとされています。

 相手を尊敬したり、憧れの存在として自分よりも一段高いところにいる人なのだと思ってしまえば、楽になれます。嫉妬からも解放されますし、自分が相手より劣っていると感じても、「相手は上の人なのだから」と、あきらめとともに容易に納得ができます。
 でも、そういうふうに相手を一段上に置いていると、その相手とは、ある一定のラインを超えて親しくはなれないし、対等な関係を築くこともできません。楽にはなれるけど、それで失ってしまうものもあると私は思います。
 「尊敬」というのは、そんなに簡単に、瞬時に生まれる感情ではないのではないかと思うのです。
(「嫉妬する女の子」より)

「ある一定のラインを超えて親しくはなれない」のところと、最後の一行がいい。いいんだよなぁ。


このあとに続く以下の箇所も、なんだかすごく大切なことを書こうとされている。

 嫉妬にも、種類があると私は考えます。誰彼かまわず手当たり次第に、ほとんど反射的に自分よりも恵まれた人にイライラする、というような種類の嫉妬は、ただの醜い感情でしかないかもしれません。けれど、「あんなふうになりたい」という憧れや、「でも、あんなふうにはなれない」という劣等感から来るどうしようもなく割り切れない気持ちが、嫉妬という形で表に出てきていることもあります。
 そして、後者の嫉妬の中には、決してごまかしてはならない大事なものが混じっていると思うのです。
(「嫉妬する女の子」より)

「努力したい」という気持ちの大切さの深いところを掘っている。「あこがれです」って言ってしまったら、もうそこでおしまいなんですよね…。自家発電力のとても大切なタネ火のありどころは、たぶん嫉妬に転変しやすいものなのだと思う。


雑誌の仕事で一流の販売員さんの接客を受けたときの話もすごく印象に残りました。

「似合う」「似合わない」ではなく、着る人の意志を、そのお店では大切にしているのではないか。「私はこれに挑戦する」「これをどうしても着たいから着る」「大好きだから、この服を持って帰りたい」という、そうした意志のほうが、似合うことや似合わないことよりも、大事にされているのではないかと感じました。

バイタルと紐づいているのか、エゴと紐づいているのか。この違いが見えていても、後者にアプローチするほうが利益を考えたら手っ取り早い。でもそういうところで魂を売らない選択をする人も、いるところにはいる。


一冊を通して読んでみると、買い物をする場面て、ほんとうに考える題材の宝庫だなと感じます。


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