うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「きまじめさ」と「調子に乗りやすさ」は見分けがつきにくい


先日、わたしが動きを覚えている人がブランクを経て練習に来られるようになって、あるひとつの挙動について「あの動きが、出なくなりましたね。初心に返った感じになると、なくなるのかな…」という話をしたら、「ああ。わたし、調子に乗りやすいんで」とおっしゃっていました。
その挙動とは、先の手順をやや早すぎでは…というタイミングで用意するような動きなのですが、多くの人にそれはときどき起こります。
わたしはそのような動きが見えたときに



 先の心配を、わざわざつかまえないで



というふうに言うことがあります。うどんのゆで汁に水を差すような、そんな感覚で。
これには理由が2つあって、「きまじめさ」の暴走の抑止でもあり「調子に乗りやすさ」の抑止でもある。
きまじめ&調子に乗りやすいって、意味がわからないかもしれませんが



「あぁはいはい、次はこうするのだよね。だーよーねー(調子に乗る)



という思考は



「わたしは学んでいます。次はこうするのですよね!」(きまじめ)



と、とても見分けがつきにくいのです。動きが似る。きまじめさの「!」が、「だーよーねー」と似ているのだと思います。
こういう、世間のイメージではまったく逆の性質のものに見える感情でも、種の発芽力のありさまがすごく似ていることがある。



 先の心配をわざわざつかまえない



というのは、長い経緯を含む意図としては



(あなたが経験で知っていると決めつけている)"先の心配" をわざわざつかまえるのを、習慣化しないほうがよいと思うのよ〜
(はじめてのことにチャレンジするときに)その習慣が自分で自分を束縛する原因になると、もったいないから。


ということでもあるのだけど、もちろんクラスではそんな話はしません。流れを止めてしまうのでね。
でも自分の練習に対して「わたし、調子に乗りやすいんで」と挙動を振り返って自己観察をする人もいる。



 あぁはいはい。わたしは学んでいますから。
 次はこうするのですよね!
 知っていますよ。はいはいはい。



自分が混乱している瞬間に、その苦しみを即座に打ち消してしまうようなこの種の態度(誠実コーティング)は、クセになってしまうときっと他者から見た自分の価値を下げてしまう。なんというか、安っぽくなる。他人から軽く見られていると感じたり評価が足りないと思うときは、まずこの冒頭の「あぁはいはい。」や、末尾の「はいはいはい。」をやっていないか、気にしてみるといいように思います。振り返ると、わたしは若いときにこれをよくやっていたなぁ…と思うのです。


こういうことを後から振り返って観察できるようになるのは、練習の成果なのか年齢を重ねたことによるものなのか、もともとあった種がやっと花開いたのか。いずれにしても、わからないよりはわかったほうが「gently」な方向へ近づけそう。
わたしはインド人の先生がよくアーサナの指導のときに使っていた「gently」という言葉が、いつも気になる存在としてあります。これを日本語にするときにどの方向で変換するかというと、ヨガの思想的には「peacefully」なのだろうけど、わたしが先生から受けたインプットの感じでは「composedly」「tranquilly」(あわてない)でした。
いつもそれを気にしながら練習していたので、「きまじめさ」と「調子に乗りやすさ」の境界が気になるのかもしれません。自分の身体を持ち上げたり折りたたんだりしながら、気持ちのほうもいっしょに動かしていたようです。


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