うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

私塾のすすめ ─ ここから創造が生まれる 齋藤孝×梅田望夫


いまから8年前の本。もうこの本にある先読みは当たりきっている。オンライン・サロンの活況を見ていても、そう思う。そんなインターネットの少し前のことを確認するように読んでも面白いし、今やこれからがなぜそうなっていくのかをあらためて考えるきっかけをくれます。いまどんどん誹謗中傷に対してナーバスになる人が増えているけど、この本はそういう面に対する「忘れていた寛大さのありよう」みたいなものを再認識させてくれる。
以下の梅田さんの話されていたことは、いまわたしに実際に起こっていること。

 ブログに気にいった言葉とか、このサイトが面白かったよとか、自分が面白いと思ったものについて、なぜ面白いと思ったかを、ただ淡々と書いていく。そうすると、志を同じくする人がつながっていく。別にその人といっしょに会社をやらなければならないというのでもないし、皆それぞれぜんぜん違う生活をしているんだけれど、ブログを読んだりコメントを書いたりすることで、生きる力をもらったりする。それが私塾に発展していくケースもあるでしょう。「いいとこどり」をすればいいと思うんですよね、ネットの使い方というのは。「いいとこどり」をする道具として、ネットも活用すればいいし、読書もそうだし、言葉を自分のなかに残していくのでも、そうだと思います。
(158ページ 「心で読む読書」、心の糧になる言葉をもつ より)

わたしはヨガクラスをあちこちでやるようになりましたが、「いいとこどり」というのがやっぱり重要と感じます。実物のわたしに会ったことのない状態で「調べもの検索⇒ブログ」をきっかけに自分で扉をこじ開けてきてくれる人の吸収力は、やっぱりほかの出会いかたの人とは明らかにちがう。初心者でも練習中やその前後で見える所作・態度がヨガを食い散らかすような挙動ではないので、一生に一度しか一緒に練習できないにしても、すごくうれしい。
「ネット×設定の違い」の幅や奥行きには、まだまだ可能性を感じます。


この対談では梅田さんの考えかたのベースが語られていて、それはわたしが日々「よい共鳴ができる設定って、たぶんこう」と想定していることと共通するところでもあり、はげみになりました。今日の引用はすべて梅田さん部分です。

「ここにチャンスがあるんだし、一生懸命努力すれば……」と言ったときに、「そんなこと俺はできないよ」「興味ないよ」という人のところまで下りていって、「さあやろうよ」とまで自分にはできないなと感じました。
(71ページ 上を伸ばすか、全体の底上げをはかるか より)



 人間が人間を理解するとか、ある人が何かをしたいと思ったときに、相手がきちんと受け止めてくれるということのほうが、めったにおこることでない。そういう事実を、ベースにおかなきゃいけないと僕は思います。
(129ページ 量をこなすことをおそれない より)



 僕は基本的に、ものごとというのは、だいたいのことはうまくいかないという世界観を持って生きていますね。だから、一個でも何かいいことがあったら大喜び。そのへんがまだ十分に伝えきれていないところなのですが、世の中に対する諦観がベースにあります。
(132ページ 量をこなすことをおそれない より)

わたしも「世の中に対する諦観」があったほうが前進できると思います。意志のある人とない人にちゃんと差が出るように神様がいると思うほうが、救いがあると感じる。




わたしはインターネットの評価のありかたがすごくフェアで好きなのですが、以下のような説明は本当にうまいなぁと思いました。

たとえば次に新規営業する先について、まず相手方の人についてグーグルで検索して、それから、その部分を検索して、競合情報を検索して、と、やればいくらでもできる。やる人はやる、やらない人はやらない、となると、当然、やった人が勝つ。だから、「自分の志向性とその仕事が合っている」ということに自覚的であるということが、これからますます求められると思うんですよ。
 僕が「好きなことを貫く」ということを、最近、確信犯的に言っている理由というのは、「好きなことを貫くと幸せになれる」というような牧歌的な話じゃなくて、そういう競争環境のなかで、自分の志向性というものに意識的にならないと、サバイバルできないのではないかという危機感があって、それを伝えたいと思うからです。
(145ページ 「好きな仕事」でないとサバイバルできない より)

興味があるから自然にやる、という情報収集力もそうですが、「もともとよく気がつく人」はネットの情報の見かたの時点ですでに優位性がある。




以下もうなずきました。

 つまり、「読書とは何か」と考えたときに、「知」というものを頭の中に入れ込んで記憶して、それを人に伝えるとかひけらかすとか、どっちが物知りか比べるみたいなことだと、グーグルにどうせ負けてしまう。
(155ページ 「心で読む読書」、心の糧になる言葉をもつ より)

この人の話は聞きたくないというときに、自然と「グーグルに聞くからいいよ」という思いが発動してしまう現代。「文字では読んでいたけど、この人の口から説明を聞きたい」と思われるようになるところまでいきたい。




以下もずっと思うことだけど、再認識する記述は何度もいろいろな文章で読みたい。

 最近本当に感じるのは、情報の無限性の前に自分は立っているのだなということです。

(中略)

何を遮断するかを決めていかないと、何も成し遂げられない。ネットの世界というのは、ますます能動性とか積極性とか選択性とか、そういうものを求められていくなと思う。無限と有限のマッピングみたいなことを本当に上手にやらない限り、一日がすぐに終わってしまう。
(183ページ 優先順位のつけかた より)

わたしは年々、「会ってまで話したい人」との時間をまず最優先で組み立てるようになってきています。




まえに有名な人がレストランで優遇されなかったことをtwitterで拡散させて問題になったことがありましたが、以下に引用する梅田さんのスタンスは、重要さの性質として意外と語られないところを拾い上げてくれています。

こちらは、ある程度名前も知られていて自分の名前で仕事をしている人間だけど、そこにコメントしてくる人というのは、まだ何ものにもなれていない一人の人である可能性が高いでしょう。僕がその人に対して、非常に強く戦いを挑んだら、勝つかもしれないけど、相手は本当にダメージを受けてしまうかもしれない。だからそれは絶対にしません。
(138ページ 自分のなかに「私淑する人」をつくる より)

「まだ何ものにもなれていない一人の人」って、すごくきつい設定なんですよね。どんなに無駄口が多くても、相手は仕事や家庭など寄りかかるものを失ったら閉口するしかない状況かもしれないことを、あらかじめ認識しておかなくちゃ。こういうのはやさしさでも慈悲でもなく、それ以前ことだと思う。


わたしはここで10年ブログを書いていますが、思い返すと本の感想に対して初めて著者自ら「読んだよ」というサイン(はてなスター)をくれたのは、9年前の梅田さんでした。いまそういうことも珍しくなくなって、たまにアクセスが増えたと思うと紹介した本の著者のtwitterアカウントからだったりして、文脈やスタンスを読み合える関係性のようなものがどんどん細分化していると感じます。
本全体の内容は齋藤さんの主張や語りが多いのですが、そのアツさはもう他の本で読んで免疫ができているので大丈夫でした。いま読むと、おもしろい組み合わせ。梅田さんが齋藤さんに「すごいなぁ。でも、くたびれるでしょう。」と相づちを打っていると「ほんとだよ、まったく」と、わたしのなかのちびまる子さんが合いの手を入れる。
不思議なはげまし効果のある本でした。長年自分でなにかを発信し続けている人に、特におすすめです。(いま読むと書かれた当時とは状況が違うので癒やされます)