うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インターネットの基礎 情報革命を支えるインフラストラクチャー(村井純 著 / 角川インターネット講座1)


わたしはよくグローバルなサービスとドメスティックなサービスの主張のなかで混乱します。
ICカードを忘れた日は切符を買うのがすごく不便だなと実感するので、機能が便利なのはすごくわかる。でもICカードにチャージしようとすると、どのカードでもだいたいチャージできるのに「この機械は Pasmo の管轄の場所の機械ですのでピンクでーす」みたいな顔をしている。無視して緑色の Suica を入れてチャージをする。
新幹線で東西を往来するときも、クレジットカードで決済は済んでいても関東で帰りのぶんの切符も受け取っておかないと、京都で切符が受け取れない(JR西日本JR東日本は別の会社ですから!)なんてことを数年前はやっていた。いまもかな。
利害関係を超えてシームレスにつなぐというのは、なにげに大変なんですよね。

この本の第4章に、

地球を包み込むグローバルなシステムが、大きな権威なしに形成されているのは、人類史上なかったことだ。

とあって、「ほんとだよなぁ」と。


個人が端末を通じて繋がる社会になっていく過程で、ざまざまな機関が権利の考えかたを乗り越えてきたことや、9.11以降にあまり議論されずに通過していったパトリオット法のことなど、インターネットの歴史が学べる。非独占的で平等であることがひっくり返ってはいけないなかで生まれた非対称な通信形態が、インターネット利用のひろがりと共にセキュリティ手段として普及するようになったりもする。常にバランスの中でなりたっていく普及。
そしてなにより、

脳と感覚とが地球全体で共有されるようになったとき、そこには無限の可能性が広がる。そこで新しいことに挑戦すれば、それまでの枠組みとは違った世界になり、いままでの世界で生きてきた人には何かの痛みが生じる。
(産業とインターネット より)

この状況をどう見ていくか。
わたしは「情弱(情報弱者)」という言葉がすきではなくて、暇な人が勝つとか画面を見る暇がある人が勝つとかそういうのも苦手。こういうことを、個人が卑屈にも傲慢にもならずに判断できるように、そういうやさしさの土壌のようなものはインターネットの歴史の中にどっしりとあるから、なるべく小細工せずに生きていきたい。そんなことを思いながら読みました。



こんな話も載っていました。

インターネットの誤った伝説のひとつは、ARPANETは軍事用に開発され、それが民間に転用されたというものだ。これは、ARPAが研究資金を出していたことから憶測された誤解である。
ARPANETは軍事ネットワークだったのか より)

この本を読むまで、「ほんとかよー」と思っていたこと。「そんな美談があるかいな」と思っていたら、誤解らしい。
インターネットはいったんすごく閉鎖的なところまでいって、また変化して行くのかな。ネットメディアはどんどん勧善懲悪の時代劇っぽくなって、SNSは拡声器や処刑ツールみたいになっている。もうちょっと淡い感じでもいいのに、味付けが濃いものが多い。
いまはちょっとこういう本を読んで、流れを見つめる感覚でいようと思う。


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