うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

暇と鬱が紐づく瞬間のこと

GW明けからしばらく、「暇だからウツになるのか」という意図の検索が上昇していました。今日はそれについてのわたしの考えを書きます。
なんでそんなふうに検索傾向を知ることができるのかと思う人がいるかもしれないので少し説明すると、以下のページの検索流入が増えています。


わたしはこのブログの書き方にいくつか決めていることがあって、SNSと連携させずに運用することで、上記のような事象にわたし自身が気づけるようにしています。世の人の関心の動きをニュートラルに読める場として機能させることを重視しています。
詳しくはこのブログの引越し直後に書いたページの末尾項目「さまざまなWebサービスがあるなかで」に書いていますので、もっと知りたいかたは、専門用語が多くなりますがこちらをどうぞ

 


話を戻します。今日の本題はここからです。
先の「暇だから、うつになるのでしょうか」を書いたのは4年前です。暇と鬱っぽさについては友人との会話でもよく話題になります。
今日は暇と鬱が紐づく瞬間について、自己観察から実感していることを書きます。昨年から強制的に暇になるという経験をして気づいたことがありました。
わたしは暇なときに以下のような考えが展開すると、鬱っぽくなりやすいと感じます。

 

 

  いま目にしているものと自分は関係がない

 


「いま目にしているもの」は、あなたにとってのいまで言えば、このブログの文章。
わたしと元々面識があったり関係性を自認していればいるほど、暇なときにこのブログを読んでも「鬱」につながる感情は紐付きにくいだろうと思います。あの人、相変わらずやってるな、という視点になるでしょう。

 


こういう関係性の思考の逡巡を、わたし自身、昨年経験しました。

かつて現地で学ばせてもらったインド哲学の先生が開催するオンライン授業に申し込む際に、「こんにちは。うちこと申します。わたしはこれこれこういう者で、**年に先生のトレーニングを受け、昨年は道場のロビーでご挨拶だけさせていただきました」というメッセージを添えた時にこのマインドを認識しました。
クラスのはじめに「日本はいま夜遅いでしょ、何時?」と言われて、ああ覚えてくれているものなんだなと思い、そしてそれが、わたしが疎外感を先取りして起こした行動の(先のようなメールを書いた気持ちの)要因を掘り下げるきっかけになりました。

 

 

別の例も出しましょう。
たとえば、「いま目にしているもの」が近所の新しいカフェだったとします。これもわたしの生活でよくある、かなりリアルな事例です。
外のベンチで楽しげに談笑している人がこぞってオシャレに見えて(←カフェあるある)、自分はその近所に住んでいるのに ”いま目にしているものと自分は関係がない” と考えようとしました。これもまた疎外感の先取りです。
自分のメンタルがそのモードに入る理由とそのカフェの存在は、実は関係がありません。同じお店でも、そこを通りがかった時の気分が「えー、なになになに」というワクワク好奇心モードなら、いきなりコーヒーを飲みに入れます。
大切なことなのでもう一度書きますが、自分のメンタルがそのモードに入る理由とそのカフェの存在は関係がありません。わたしの心象、わたしの心の鏡の表面の材質の状態の問題です。カフェの存在は、反応を起こすきっかけです。

 

 

  いま目にしているものが自分と関係のないものに見える

 

 

冒頭に書いた「暇だからウツになるのか」という問いは、「暇」が定量的なものでなく定性的なものであることにむずかしさがあります。なのでその性質を見ないと、 “予定はあるけどむなしい” という状況に陥ってしまう。

まるで絶頂期のアイドルのようなマインドになり(←なったことがないので想像ですが)、他者からの利用価値を自分の価値と同一化し、淋しい気持ちに振り回される虚像的人格の沼におちる。一般人なのに。
わたしはこの “一般人なのに” というところが、意外と昨今、あなどれないと思っています。SNSで自身の活動や行動、他者との交流をアピールする人が多い世の中ですからね。

 


さて。話を一般人の世界に戻します。想像してください。
ここにふたりのおばちゃんがいるとします。二人の学生でもかまいません。

「暇だね」「ほんと暇よー」という会話をしている二人は、両方とも「暇つぶしに付き合っている」という役割を果たしている感覚に支えられています。わたしはこういう会話ができる友人関係を、近頃ますます重視するようになっています。「お忙しいところ」みたいなことを書くのって、礼儀正しいけれど、なんかねじれすぎな気がして。
同じ「おしゃべり」という行為でも、信頼関係があれば役割を果たしている・暇ではないと感じられる。

「不要不急」というフレーズの登場によって、すましたり斜に構えていられたのって、社会全体に余裕があったからなんだなということに気がつきました。

 


もっとしれっと、「暇ね〜」「暇よ〜」と言えればいいんじゃないかと思うんですけどね。
いいねボタンじゃなくてね。