半年ぶりの夏目漱石読書会(関西)に向けてテキストを作成する中で、おもしろい発見があったのでちょっと書きます。
次回の題材にする「それから」という小説はたいへん要素が多く、なかでも戦争を経験した実業家の父とニート息子のからみに感情移入する人が多い作品です。それを見越して事前の宿題設定をしたのですが、複数の人が思うところの多かった箇所に、日本語の変遷を発見しました。
以下「三」から
親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云う習慣になっている。代助に云わせると、親爺の考えは、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有していない。しかのみならず、今利他本位でやってるかと思うと、何時の間にか利己本位に変っている。言葉だけは滾々(こんこん)として、勿体らしく出るが、要するに端倪(たんげい)すべからざる空談である。それを基礎から打ち崩して懸かるのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めよりなるべく触らない様にしている。ところが親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得ているので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来る。そこで代助も已むを得ず親爺という老太陽の周囲を、行儀よく回転する様に見せている。
この少ない文字数の中に、気になる日本語の使い方が満載です。
主張に理由を後付する感じとか、あなたのため=自分のためでしょとか、子は親の太陽系に属するとか。
太陽は照らす対象を選ばないはずなのに、人間宇宙の太陽である親は、人間ゆえに照らす対象を選び、条件を出す。「虞美人草」とはまた違ったエグさなのだけど、この親へのニート息子の対応がおもしろい。
やむおえず、親の周囲を回転する惑星の役を演じる
ここに注目したきっかけは「已むを得ず」という文字列。
読書会参加者さんからの宿題メールで読んでいたときに、「ん?」と思ったのです。いまは「止むを得ず」と変換で出るので、ピンとこなかった。
調べたら、三省堂辞書サイト「Word-Wise Web」にすばらしい解説がありました。
むすびに
「やむをえない」心境は、どこに暮らせど、避けがたく訪れ続けるものなのだろう。そこにも漢字圏周辺部での漢字の受容の様相の差が現れており、「やむ(已む)を得ず」は、漢文訓読を固定化させ、漢字を善くも悪しくも血肉化させた日本語ならではの表現法なのであった。
とあります。「漢字を善くも悪しくも血肉化させた」というのは、「それから」に登場するめちゃくちゃ儒教的な父親の存在と重なります。
感覚的な流れでは
- 自分を出すことを得ず
- 相手を止めることを得ず
が、漢文訓読をしているうちにいつの間にか主体のところだけ反転したのでしょうか。
こんなことも書いてありました。
- 平仮名で「やむおえず」と書く人は、「やむ」と「おえず」から成る語だ、と異分析をした結果かもしれない。
- 「ヤモーエズ」というように発音する人があるため、「やもおえず」「やもうえず」などと記す人もいる。
こういう勝手な分解再構築とか、リエゾンして逆転することって、ある!
音の話になると、わたしは「幸か不幸か」を「幸か福岡」と聞き間違えるような、リエゾンが反転した聞き間違いをよくします。
感覚で、印象で、塗り替えで、ことばは変化している。ブサイクの漢字の "不細工" も、小説「それから」の時点では "無細工" なのでマイナスではなくゼロってだけ。古典を読むと、細かい言語感覚におどろくことがたくさんあります。