うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

お口のバンダ。ことばだけを崇めても、なにも起こらない

最近、思い通りにコトを動かしたいときに「勝つための方法論」にばかり意識が向き、肝心な「いまここにある身」をそっちのけにするという現象についてよく考えます。

  • いい就職をしたい
  • いい結婚をしたい
  • 三点倒立をしたい


最後のは、唐突ですか? ちょっと強引ですかね。まあよしとしてください。
今日は「したい」に共通する話です。



自己啓発本にしろ、成功している人の結婚論にしろ、三点倒立にしろ、「勝つための方法論」「手順のノウハウ」は経験の共有。魔法ではないので、文字を追ったりマントラのように復唱しても、それはそれ。
経験の共有なので、経験をしてもらわないといけません。なのでヨガのアーサナの練習の場合は、口ではなくそれ以外の身体を動かしていただきたい。



 ○○なんですね

  ↓

 ○○なんですよね

  ↓

 ○○でしたよね

  ↓

 ○○してるんですけど……



口を開いてしまう人を見ていると、この4段階のあいだに時間を経ながら「少しずつ記憶を塗り替えている?」と感じます。言葉だけを保存して塗り替えて再保存して……を、繰り返す。
その塗り替えのプロセスは、恋人の気持ちが自分から離れていくのを認めたくないときのマインドに似ています。
ごめんなさいね。今日はわたくし、お子様にもわかる喩えが見つけられません。
(しばし脳内再生ヴォイスを叶恭子様にスイッチした状態で読み進めてくださいませね。←これ便利)



あたりまえに感じていたものを失うかもしれないときって、混乱しますね。わかりますよ。ええ。
ただ「倒立の練習中にも、それやる?」っていう話なんです。




 ○○なんですよね(つきあおうって言ったよね)

  ↓

 ○○でしたよね(そっちから言ってきたよね)

  ↓

 ○○してるんですけど……(言われたとおりにしてるんですけど……)




瞬間瞬間、努力をすることを忘れてしまった惰性の恋は、惰性のまま続くか終わるか。いつのまにか、努力することすら放棄しそうな勢い。なんだかアーサナの練習と似ているなぁと思うのです。
瞬間瞬間の現実を見て練習しなければ、重ねてもこじれるだけ。未来の失敗の可能性を先回りしてつかまえて「うまくいかないなんてこと、ないもん!」という頭の中の主張をしても、結果は神のみぞ知る領域。人間同士が経験を共有する場面では、その主張は幻想のひとつでしかありません。



倒立なんていう「日常生活の中ではまったくできなくてもいいこと」を、わざわざやろうとしているのです。そんな「なくてもいいもの」を手に入れようとする時ですら、「うまくいってなく、ないもん!」を発動させてしまう心の癖には、ひとりで向き合うしかありません。これを誰かと共有したい、と思って口を動かしてしまうと、社会生活の上では「依存は孤独の種まき」という事態になります。





まえに倒立の練習をしているときに「この前は、できたんです!」と口にした人に「いま1回やって1回成立するかです。再現性の確率を上げるための方法を、いま教えています。"この前はできた" っていうのは、STAP細胞の話と同じです」といったら、横で見ていた人から「このタイミングでそれを持ち出すのか! でも、そういえばそうですね」と言われました。「できる」は「できた」でしか証明できない。なので、「できた」ら「あった」になります。「あった」が証明されたら、「できない」と決めつけていた人たちは、どうするんだろうなぁ。
そんなわけなので、




 できなくないもん!




は、「できた」ときにしか証明できません。




 お口のバンダ




ことばよりも、姿を示す。
この癖をつけていくことで「依存は孤独の種まき」の状態を「実証は信頼の種まき」に変えていく。
わたしが経験を共有したあとは、各自が「孤独耐性から生まれる力」を信じるしかありません。

がんばってね〜



ここで耐えるのよ! ここでっ☆