うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

メタフィジカル・パンチ 池田晶子 著


勢いあるなぁ。と思って読み終えたら、この文章を書かれてから10年近く後のコメント「文庫版へのあとがき」に

まあ随分と過激にして直截な、文章表現上は今なら違ったふうに書くだろうとは思いましたが、考えかたは基本的には変わっていないので、若気の記念として、手を入れずに文庫化することにしました。

とありました。人物批評本です。

池田晶子さんは掲載メディア・ターゲットごとにトーンの書き分けを明確にされていますが、この本に収められている文章は「諸君!」に掲載されていたものなので、たいへん「勢い」があります。いま読むとたぶん「読みにくい」と言われたりするタイプの文章かと思いますが、わたしは首がグニャグニャになるほどうなずいた箇所がいくつもありました。
なかでも、ニーチェに関するこれは、ニーチェおよびその成分の本だけがなんとか売れていく、みたいな未来予測。

 ニーチェが俗ウケする理由は明白だ。俗物を痛罵する彼の言葉を読むことで、読んでいる自分は当の俗物ではないと思えるからである。まるで俗な心の動きである。哲学書を読むに際して、哲学者の思考の動きを読むのではなくて、自分にもありそうな心の動きばかりを探して読む、これが俗物の心の動きでなくて何だろう。ニーチェが口を極めて罵ったのが、まさにこれであったはずなのだが。
(39ページ)


たぶん、いつの世でもその割合はおんなじなのだ。「自ら考え詰める」一握りの人々と、「信じてついてゆく」大勢の人々と。
(43ページ)

この二つの引用部の間で、少しオウム真理教について触れられています。


戦争を知っている、実際に体験したというそのことだけで、戦争を知らない、実際に体験していない人々と自分とを分け隔てようとする人々にも、私は言いたい。なるほど、体験した、しかし、そのなにが偉いのか。たまたまその時代に遭遇した、遭遇したからには否応なくそれを生きた、そのことのなにが偉いのか。個人的体験を普遍的形式のもとに対象化し得ずに特殊化するとき、それは、生活上の不安を人生の一大事と悩んでいる戦後の人々と、態度としては同じである。
(137ページ)

このあと「(世代論は)他者に語りかける装いの、どこまでも自慰行為」とバッサリいく。



日本人論のようなものも、わたしもそう思う、ということが書かれていた。

もうずーっと思っている。生活の国なのだ。生活優先、現世御利益、哲学さえもが生きるための方便。もともとその種のことを考える癖がないものだから、たとえ考えても外国からもってきて取って付けたようなものだから、埴谷(雄高)が社会革命を超える「存在の革命を」と言い出すと、わけもわからずついてきた人々は、いよいよもってわからなくなる。わからなさ余って教祖化するか、じいさんボケたということにする。処置なし。
(143ページ)

わたしがインド人に「ほとんどの日本人は唯物論者だよー」と答える理由がまさにこれ。


「言行一致」を唱えるためには、言と行とが別物とまず考えられていなければならないという点に、皆さん、注目してください。そしてその間隔を、「べき」と「理想」で架橋する、これが通俗道徳。そこにはどこまでも無理が残る。
(178ページ)

その間隔を「べき」や「理想」の言葉で架橋しないように努めるのが哲学。それを脳内で「べき」や「理想」を加えて架橋するのが現代人。その中間をうま〜く狙ったのがパタンジャリ。パタンジャリすごいなぁ。



この本には「小林秀雄への手紙」という、「尊敬するがいまは亡き人への手紙」という形式での文章も収められています。

「粉飾した心のみが粉飾に動かされる」と彼方はおっしゃっておいででした。けれども、粉飾した心は粉飾のないところにさえも、何とか粉飾を見ようとします。そんなとき私は、怒り苛立ちというよりも、もっと生理的に強く来るものを覚えます。思想がどうのではなくて、ひたすら不潔な感情だと思うのです。
(198ページ)

「この人のことは尊敬しているから、こんな私もさらけ出します」というやりかたも「不潔な感情」という気がする。こういう文章を読むと、状況や設定に関係なく笑わせてくれる太宰治ってやっぱり芸人だ! という思いが浮かぶ。

言葉を頼りにしない人にこそ楽しめるエッセイなのだけど、言葉は鋭い。そんな本でした。
わたしは単行本で読みましたが、文庫が出ています。