うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ウパデーシャ・サーハスリー ― 真実の自己の探求 シャンカラ著 / 前田専学(翻訳)


自著が少なく主に注釈者であったシャンカラ
この「ウパデーシャ・サーハスリー」も序盤はウパニシャッドからの引用が多い状態ではじまるのですが、途中からシャンカラ的「人たらしの技術」のようなものが炸裂しており、思わず引き込まれます。この人の言葉の巧みさは異様なので、いつも「だまされないぞ!」という心持ちを強めにして臨むのですが、一瞬「ああもうどうにでもして」という気持ちの種が発芽しそうになる。
だって、こんなだもの。

「束縛とは、統覚機能の錯乱であり、解脱とはその〔錯乱の〕止息である」(第16章59)


この本は第一部「韻文編」、第二部「散文編」という構成になっていて、散文編のほうは師弟語り調です。
以下はシャンカラ的というかシャンカリズムといってもいような、特長的なもの。いずれも「韻文編」より。

アートマンを知っている者が、他のなすべき義務を果たそうと欲するならば、川の向こう岸に渡った人が、向こう岸におりながら、向こう岸に行こうとするようなものである。(第14章13)

わたしはシャンカラのグイグイ感にひっぱられてしまうときの感じは、空海さんのそれと似ている。

カーストなどの行為の原因をすっかり捨てて、賢者は、聖典に基づいて、行為の原因と矛盾する自己の本性を想起すべきである。(第15章8)

カーストを明確に否定しているのだけど、そのあとがマッチョというか、カーストのせいにしている場合でなくなってくる。


わたしはヨガニードラの説明や読書会のときに、たまに夢を見ることや心臓が動いていることについて書かれている書物について話しますが、シャンカラは特に夢眠状態についての言及が多いです。

〔熟睡状態から目覚めて後〕、「私はこの熟睡状態において他のなにものをも見なかった」と考えるとき、人は自分の見(=意識)を否定しているのではなくて、〔見る対象である〕観念を否認しているのである。(第18章97)


夢眠状態のときの一切の苦しみは、覚醒によって止息するように、自分自身が苦しみを受けているという観念は、内我は〔最高〕アートマンであるという観念によって、つねに〔止息する〕。(第18章191)


君が寂静となったとき、差別観は存在しない。その差別観のために、マーヤー(幻力)によって、世人は混迷に陥る。なぜなら、〔差別の〕認識は、マーヤーが生ずる原因であるから。〔差別の〕認識から自由となるとき、何人にもマーヤーは存在しない。(第19章5)

最後のやばいでしょ。もう、もってかれちゃうでしょ。そんでもって「ワンネス」とか言い出したくなるでしょ。気をつけてー。
この本そのものが「人たらしの技術のモトネタ満載」みたいな感じなのですが、こういう書物は他派と比較するスタンスで読むか、信頼のおける(本人に余裕のある、もしくは余裕のなさを掘り下げ済みの)指導者から説明を受けましょう。


わたしはどこかに軸足を置かないとインド哲学の書物を理解しながら読みすすめられないので、サーンキヤに軸足を置いているのですが、以下はサーンキヤでいうプルシャがヴェーダーンタでいうアートマンだというのがわかりやすい節。

統覚機能にある認識対象は、統覚機能が存在するときに存在する。逆の場合には存在しない。認識主体(=アートマン)はつねに認識主体であるから、二元は存在しない。(第7章5)


描かれた絵が見られるのはカンバスにおいてであるように、かつて見られたものが、〔それを〕想起している人によって見られる〔のはその基体においてである。その体〕は、統覚機能と呼ばれ、それを見る〔主体〕は、知田者(=アートマン)と呼ばれるものである、と知られるべきである。(第15章2)


認識者(=アートマン)は、なんの努力もしないで、認識主体となると同様に、磁石のように、行為主体となる。それゆえにアートマンは、それ自体、本性上認識されるものでもなく、認識されないものでもない。(第15章48)

なんの努力もしないで、磁石のようにって、シャンカラさんはまじめかつ模範的!
サーンキヤだとここはダンサーがダンスを見せに来たんだから見ちゃうんだもんねみたいな観客ベースなのだけど、たしかになんの努力もしていない(笑)。


ちなみに主張が分かれることがわかる節は、こちら。

サーンキヤ学派は、二元論の立場に立って、宇宙の根本原理として純粋精神プルシャと根本物質プラクリティの存在を想定し、そのうち根本物質は純質サットヴァ・激質ラジャス・暗質タマスという三つの構成要素グナの平衡状態を指し、その平衡状態が破れるとき、宇宙の展開が起きると主張している。しかし三つの〕構成要素グナの平衡状態が破れるということは、不可能である。なぜなら、〔この状態においては〕無明などが休止状態にあるからである。また〔サーンキヤ学派においては、その〕他の原因が認められていないのである。(第16章45)

無明やマーヤーも均衡のバランスの中にあるのだから、ということなのかもしれないけど、わたしはサーンキヤが心(あるいは頭)を人間にとってとびきり特別なものと扱いすぎないところが好きなので、シャンカラさんにこういわれてしまうと「まあそうだけど、人間はそんなに偉いか」という気持ちになったりする。


タイジャサの定義の違いも興味深い。

無明に基づく行為から生ずる潜在印象が、〔夢眠状態において〕、意という拠り所(=統覚機能)に顕現し、みずから輝く〔アートマンによって〕照らされているのを見つつあるアートマンは、タイジャサ(=光明我)と呼ばれる。(第15章24)

なんだかこちらはサーンキヤに出てくるタイジャサとずいぶん違う。夢を見ている状態にうっすら気づいている自分みたい。


第二部「散文編」からは、ここに最も引き込まれました。

〔弟子は反論した。〕
「召使いとその主人は精神的なものであるという点において等しいわけですが、両者は相互のために存在するということが経験されるのではないでしょうか。」
〔師は言った。〕
「そうではない。火が熱と光輝を〔本性として〕もっているように、君は精神性を〔本性として〕もっている、ということを言おうとしたから。そして〔その意味において〕、『二つの灯火のように』という実例を挙げたのです。そういうわけで、君は自分の本性によって、すなわち火の熱と光輝に相当する不変・常住な精神性によって、君の統覚機能にのぼる一切のものを知覚する。このように、君がアートマンは常に無差別であるということを承認するならば、『私は熟眠状態においては中断しますが、覚醒状態と夢眠状態においては繰り返し苦を感じます。これは私の本性でしょうか、それとも何かの原因によって起こるものでしょうか』と君はなぜ言ったのですか。この迷いはなくなったのか。それともなくならないのか。」
第2章72と73)

このあと弟子が「先生のおかげで迷いはなくなったのだが、私が不変であることについて疑問がある」と答え、まだまだ続きます。
この弟子のナイス・アルジュナっぷりが冴えてる。まあどっちもシャンカラなのだけど。


最後にもう一度、第一部から、わたしのすきな解説を。

1. 〔聖者〕ウダンカは、〔ヴィシュヌ神が、武器を持ち恐ろしい形相の狩人に扮したインドラ神を介して甘露を与えようとしたが、それが狩人の尿の排泄器官から出ていたために、せっかくの甘露を〕尿ではないか、と考えて、甘露を受け取らなかったように(『マハー・バーラタ』アシュバメーダ章54)、人々は、行為が止滅することを恐れて、アートマンの知識を受け取らない。
(28ページ 第五章 尿の疑い より)

インド思想は、まじめにこういう比喩が出てきます。


読むまでにじゅうぶんな予習を…と思っているうちに3年かかって、やっと読めた「ウパデーシャ・サーハスリー」。
予習をしてから読むとシャンカラ式の説明のパターンのようなものがいくつか見えてくるのだけど、文字を追うと妙な魔力があります。このテキストを知った気で語ってプチ・グル気分になっちゃうのは、まさにヨガのダーク・サイドなんだろうな。
なんだかいろいろ麻痺させられつつ連れて行かれちゃうような、量販店ドン・キホーテのレイアウトみたいなテキストでした。