日本語の「カワイイ」の用法の広さについて語られることがよくありますが、英語でインド古典を読むようになってから、ふだんどれだけ空気で理解することを要求される言語環境にいるのか、というのをしみじみ感じるようになりました。
あちこちで語られるメディアの功罪も、日本語がそういう方向に行きやすい構造の言語だから、というふうに感じたりします。
「カワイイ」のほかに、「バカ」もそう。stupid,fool,funny,very(ばかでかい),easy(面倒なことを言ってこない、気のいい人)と、ちょっと高次のバカもあって幅が広すぎます。
いまの世の中を見ていると、意味が明確な動詞を使うとかえって「悪意のある考え方をしてしまうドーシャ」に引っ張られた人がさらに乱れて収拾がつかなくなるから、どんどんあいまいに回避する、という決定のほうが優勢に感じます。こういうのは誰のせいでもなくて自然現象なので、しっかり意識をしたい場面では「場」で住み分けるしかありません。
高額なセミナーが儲かるのは、たぶんそういうことです。
(ん。脱線だなこれ)
今日は「場」の話ではなく、「言葉」のことを書くのでした。
日本語は、心のはたらきかたを表す動詞が圧倒的に少ないのではないか?
最近、そんなことを思うようになりました。
(1)サンスクリット語 →(2)英訳・英文コメンタリー →(3)自分の中で咀嚼 →(4)日本語で説明する
ということをやっていると、1→2に対し、2→3のところで圧倒的に語彙数が少ないと感じます。
たとえば「思う」を和英辞書(weblio)で引くと、
- 考える: think 《of, about, over》; consider
- 信じる: believe
- 判断する: judge
- 感じる: feel
- みなす: regard something [somebody] 《as》
- 予期する: expect
- 想像する: imagine; suppose; fancy; figure; 《口語》 guess; 《口語》 reckon
- 誤認する: take [mistake] 《A for B》.
- 積もりである: intend [mean] to do; be going to do; think of doing; plan to do [on doing]; have a mind to do
- 願う: want 《to do》; wish 《that…》; 【形式ばった表現】 desire 《to do, that…》
- 希望する: hope 《to do, that…》
- 懸念する: fear; be afraid 《that…》
- いぶかる: wonder 《if, whether…》
- 怪しむ: suspect; doubt
- 気にかける: mind; care
- 記憶する: remember
- 回想する: 【形式ばった表現】 recollect
- 好きである: love; fall in love 《with》; take a fancy 《to》 (軽い意味で)
ばっくり「○○○と思う」で話していることを分解すると、たしかに、こんなにある。
「○○○と思う」の前にその流れを語っていたり、前後で感情をほのめかしている。先に「思う」の種類を細分化して言ってしまう言語のほうが、圧倒的に聞く側の疲労は少なくてすみます。
逆に話す側の立場で言うと、会話としては「え〜、それってどういうこと?」という切り返しから話が展開するほうが、その過程でストレスがやわらいでゆく効果があるかもしれません。
欧米式のカウンセリング技術を持ってきたとしても、この語彙の土台の違いを考えると、ただのローカライズ(日本語化)だけでよいのか、という疑問もわいてきます。よく「傾聴」の技術などが語られますが、先に「思う」を細分化した状態でスタートする言語であれば「どうしてそう思うんだい?」でよいのですが、日本の場合はそもそも土台の会話が傾聴っぽい。わざとちょっと的外れなことを言って「いや、そうじゃなくて」と言って出てくるものを紡いでいく方法のほうが効果的かもしれません。
「思う」と同じく「心配」も、ばっくり使っています。
- 気がかり: anxiety; concern; apprehension(s); 【形式ばった表現】 solicitude
- 不安: uneasiness; misgivings; (a) fear; suspense; alarm
- 悩み: worry; care; trouble
- 憂慮する: be anxious [concerned, 【形式ばった表現】 solicitous] 《about》; be alarmed
- 不安に思う: fear; have misgivings 《about》; feel uneasy 《about》; be ill at ease
- 心を悩ます: be worried 《about》; trouble oneself 《about》
- 世話: help; assistance; 【形式ばった表現】 good offices
- 世話する: look after
- …を周旋する: find; get
「anxiety」分解
- 未来のことについての漠然とした心配、思い
- (危険や不幸を気づかって起こる)苦悩, 不安, 心配, 懸念
- (…に対する)切望、(…したいという)熱望
英語は「未来」の意味が含まれているものがあります。
時間の感覚は、サンスクリット語だと「めちゃくちゃ過去、未来」や「ひいじいさんばあさんレベルではない先祖」「連続性のあるカルマ」のように、超過去未来や無限ループが登場します。ここが、日本人がインド哲学を学ぶときに苦労をするひとつの要素。輪廻はわかっているけどその想像範囲にすごく差がある。
日本語でインド哲学のなかにある「こころの状態をしめす言葉」を説明するときは、すごく「例えば〜」が多くなります。この「例えば〜」のストックはかなり多く必要になるので、それがとてもよい勉強でもあるのですが、こういうことを日々やっていると、「んーと、この成分は……」という感じで分解するのが癖になってきます。
この状況、もしかしたら昔のインドと似た状況かもしれません。いまでも20カ国語ちかくある国の、おおむかし。
「こういうときに感じる、この感じ」を言語化しようとすることは、昔のインド人のような気分です。
先日もヨガニドラの「サンカルパ」について質問されたのだけど、
ヨガニドラのなかで言うとまあ「決意」なんだけど、「やるぜ!」というノリではなくて、「こういう意志を持ちました」って自分に言い聞かせるような決意なの。ウトウトとスヤスヤの間の、意識がミルフィーユ状態のところにそれをスーッとやさしく忍び込ませるような、そういうことをしているの。
という説明になる。
英語だと、resolveよりもdesideのほうがより外向きの決意で、「決定」というニュアンス。resolveのほうが自分に向き合ったうえでの意思という色合いが強いから、ヨーガニドラのサンカルパの説明では「resolve」が適切。日本語だと「小さな誓い」というほうがしっくりきたりする。「心に誓った」という使い方をするからね。
インド人に言ったら「そそそそんな、誓うところまで考えなくていい! それよりリラックスしろ」と言われそうだけど(笑)。
ヨガをローカライズしていくとき、この「言語感」というのは繊細に見ていかねば、と思う(mind)のだけど、考え出すと毎回ドツボにハマる。安易にポジティブな印象の言葉を使うと、そこに至る心の化学式のようなものがそっちのけになってしまうから。
「人間は弱いから、ほうっておくとすぐよくないことを考える。だからヨガが開発されたんだ」という大前提を忘れず、コツコツ学んでいこうと思う(be going to do)このごろです。